中国今昔玉手箱-江南春琴行

 

かずよさんの『中国今昔玉手箱』

【第二十一回-第三十回】




第三十回 糧票 1


  改革開放政策という社会の変化に伴い、既に撤廃して現在では見られなくなってしまったモノが、中国には幾つかあります。

 その一つに、糧票(リャンピャオ)が挙げられます。
 票は「切符」、糧は「穀類」の意味ですから糧票は「食糧切符」のこと。同様に油票、卵票、肉票などがありました。

 これらは1950年代から始まった配給制度に基づくもので、生産、販売量を国が統制していた食料を市民が購入する為に必要でした。
 食料だけでなく日用品、例えば布地にも配給切符があったという話を聞いたことがあります。切符やカードを割り当てることで、供給量が決められていたのです。

 その後、1978年から開始された、農村経済改革による家庭生産量請け負い責任制実施、人民公社の解体などで、こうした制度も徐々に緩和されるようになりました。
 因みに穀類、食用油に関しては、1993年に販売が自由化され、同時に糧票も完全に姿を消しています。

 私が北京大学に在籍していた1990年代初頭は、まだ一部ですが糧票が幅を利かせていました。場合によっては割高価格で売ってくれることもありましたが、糧票が無ければ駄目!の一徹で通されたこともありました。

 そのような場合、概ね諦めのいい私は、販売員も規則でそう言っているのだろうし、売ってくれないならじゃあいいや、と聞き分け良く他所の店に行くか、その日は別のものを買うことにするか、という態度。

 中国人にクチバシで勝てる訳が無い、と妙に悟っていた私でしたが、中には喧嘩腰で品物を強引に購入したり、中国人の知り合いに糧票を譲ってもらい、それを使用している留学生もいたようです。

 
                   

 ・・・以下続く
(2006.6.6)









第二十九回 代用食品



 代用食品、などというコトバは戦争中でもあるまいし、今の日本では(否、中国でも)もはや死語に近いかも知れません。

 中国の、少なくとも都会では外資系大型スーパーやデパートの存在は、現在では当たり前のように人びとの生活に身近なもの。日用品でも食料品でも何でも、無いモノは殆ど無いくらい。却って中国の友人や、現地に駐在している日本人へのお土産探しに苦労する程です。

 90年代初めの北京でも、既に外資系スーパーが進出していて、主だった輸入食材の入手は可能になっていました。
 けれどもそれらは、留学生にすれば概ね高価な品でした。
 大抵の留学生は、お財布と相談しながら時には奮発したり、どうしても手に入らない物があれば、代用品で調達するなどしていました。

 イタリア人留学生は、ピッツァが食べたくなるとリッチにやる時には高級ホテルのイタリア料理店などに繰り出していましたが、通常は回教徒の人が食する、お盆のような形のパンを、ピッツァ生地の代用としていました。
 彼らは代用の生地にトマトの薄切りと、国から持って来たのか一抱えもある、大きな大きなチーズの塊から大切に少しずつ削ったチーズを載せたピッツァで、郷愁を感じたりしていたのでしょうか。

 私も、代用食品ではありませんが、食べ遺したパンをガリガリに乾燥させ、おろし金ですってパン粉にするなど、日本でもやらないことを、マメマメしくやっていました。
 乾燥がちな気候を利用して、切干大根なども作っていました。面倒なことではなく、洗濯ロープに箱を吊るして、そこに並べておけば自然に出来上がり。手間も要らず、味噌汁や煮物の具に活用していました。

 無いなりにも工夫する生活。それを寧ろ、面白がるセンスを磨く。これも又、異文化に身を置く楽しみと言いますか、意義の一つかと思います。

 でも、そんなことは不自由な状態になってみなければ、やはり理解は難しいかな?



 ・・・以下続く
(2006.5.14)









第二十八回 留学生の食事情 2


 残念ながら私は機会が無く、中国人学生寮に出入りをしたことはないのですが、2~6人部屋(学部生や院生の別で、形式が違うようです)では、プライベートなスペースも限られ、寮内での煮炊きも禁止されていると聞いたことがあります。

 北京大学の留学生寮には一応、調理用とされている小部屋がありました。一応、とは、簡単な作業台と、コンセントの差込み、小さな洗い場があるだけの部屋だったからです。

 ガス台はもとより、他の調理設備も皆無なのは、防災上の理由からか自炊を歓迎しない大学側の姿勢が伺えます。
 それでも、宗教的な理由で自炊をせざるを得ない学生もいるので、完全に禁止するのは難しい実情と思われます。一応、の調理部屋が最大限の譲歩として存在するのでは、と推測しています。

 従って、自炊は言わば留学生が勝手にやっていることになりますが、留学期間が長い程、自炊の率は高いようです。冷蔵庫やトースターなど、家電品を多く所持しているのも、長期滞在者の特徴と言えるでしょう。

 調理部屋で調理する際は、設備に関しては前述のような事情の為、自分で必要な器具を持参して行います。
 食事時にもなると、調理の順番を待つ留学生で井戸端ならぬ、炊事場会議になるのです。これも又自炊の楽しさ。

 調理部屋でも自室で調理するにしても、火力は電気コンロのみ。コンロは、小学生があぶり出しに使う、アレだと思って頂ければ宜しい。
 しかし当時、コンロは作りがしっかりしていなかった為、料理が中断させられることも日常茶飯事。調理中に突如電気線が焼き切れてしまい、慌てて隣人が使っていたコンロに鍋を移させてもらうことも、珍しくはありませんでした。

 故障もしょっちゅう、火力調整も出来ないコンロなのに、トンカツや天ぷら、カレーに味噌汁、お好み焼き、煮物・・・、と我ながら結構器用に作っていました。

 でも、自分がそこまでやったのは電気コンロだったからかも知れません。
 知人を訪ねに北京師範大学へお邪魔した際、寮の廊下にガスボンベが据えられ、そこで料理をしているのを見たことがあります。もし、熱源がガスボンベだったら、過失で爆発でもしたら怖い(!?)ので、果たして自炊したかどうか判りません。

 とにもかくにも、環境次第で生活形態に随分と影響を受けるのは、確かなようで・・・。


                   

 ・・・以下続く
(2006.4.24)









第二十七回 留学生の食事情 1



 恐らく多くの留学生が、安価な食事が提供される学生食堂を利用しているでしょうが、北京大学構内では、他にも数軒のレストランが開業しています。
 どういう利権システムで運営されているのかよく判りませんが、90年代初めで既に日本料理屋、焼肉屋、しゃぶしゃぶ屋などがありました。

 これらは街のレストランと同様の利用方法で、職員の小宴会や、中国語の家庭教師をお願いしている中国人学生に、ねぎらいの宴を張っている留学生の姿、学生食堂の食事に飽きてしまった学生なども見受けられたものです。

 大学周辺にも手頃な料理屋はあるので、たまには外食を、という日もあります。私個人としては、食生活に不自由を感じることはありませんでした。

 北京大学の留学生用食堂は、留学生寮の裏に付設されています。私が滞在していた頃は、中国人学生の利用は原則不可でしたが、現在はどうなのでしょう。
 中の構造は、食堂内の一部を仕切り、一方は服務員が注文を取りに来て、宴会も出来るような点菜部(ディエンツァイブ・「点菜」は料理を注文するという意)で、もう一方は中国人学生食堂のように窓口で自分が食べたい物を選びます。前者は現金払いで、後者は食券制となっていました。

 中国人学生食堂と異なり、見本があらかじめ窓口に並べられているので、名称が分からない場合も、指して注文すれば済みます。
 メニューは中国料理から西洋料理まで、守備範囲が広いのはさすがです。ただ、あくまで「中国式」西洋料理なのは致し方ありませんが・・・。

 料理は皿に盛って供されるので、マイ食器持参の必要は特にありませんが、食堂で食事をせず、自炊派が、米飯だけ買いに器持参で現れることもあります。

 学生食堂は、食べるだけでなく様々な情報交換の場なので、それなりに利用価値のある場です。が、私も留学2年目以降、学食へ足を運ぶ頻度は減り、自分で料理して自室で食べる、自炊派に転じるようになりました。
                                     

 ・・・以下続く
(2006.3.10)










第二十六回 煎餅




 このタイトル、「せんべい」と読むか否か。
 ここでは中国語で「ジェンビン」と読んで頂きたい。

 字は同じでも、中国のそれは小麦粉を溶いて薄く焼いた生地の中に辛味噌、卵、葱、香菜、油でパリパリに揚げた油餅(ヨウビン)などを折りこんだ食べ物。中国風クレープ、と説明している料理本もあります。

 北京大学に留学していた後半期の毎週月曜日は「按摩の日」と決まっていました。学生の分際で何がアンマだ、と思われるかも知れませんが、当時重度の腱鞘炎にかかり、その治療に通っていたものです。

 治療を終えた帰りにバスに乗る所を2駅分ほど歩き、人民大学周辺の屋台で煎餅・ジェンビンを買ってパクつきながら露店を冷やかし、乗り合いバスを拾って大学へ戻る、というのが週課となっていました。
 このように煎餅は私にとって「按摩の日」を締めくくる食べ物だったのです。

 意外に思われるかも知れませんが、外で売っている食べ物を何でもかんでも試しに買って食べてみるということをあまりしない私としては、煎餅は珍しい存在。
 そんなこともあり、北京時代から9年の時を経て北京を再訪した時も、やはり食べたいものに、煎餅は挙がっていました。

 けれども周囲からの情報によると、煎餅の屋台は、最近あまり見かけなくなった、という声もあり、心配しておりました。
 街がキレイになり過ぎて、昔ながらの屋台文化も淘汰されてしまったのでは、と危惧しておりましたので、再訪の折も以前と同じスタイルの煎餅屋台を見付けた時は、本当に嬉しかったです。

 自転車の荷台の上に、簡単にガラス張りのブースで囲った小さな空間。そこで焼かれる煎餅は、生地のモチモチ感と、油餅のパリパリ感、辛味噌と香菜と葱の香りを卵で包み込んだ味のハーモ二ィとが混ざり合って、中国式ファーストフード万歳!なのです。

 日本の焼きイモ屋と同じく、夏は暑さのせいか、煎餅の屋台はどうやらお休みが多いようですが、2005年の冬にニューバージョンの煎餅屋台を発見しました。
 ピザ屋(因みに北京では必勝客・ピザハットが1992年には既に進出していました)にヒントを得たのか、トッピングを選べる煎餅屋台が、そこにはありました。

 屋台を営んでいるのは若いカップル。若者への受けを狙ってなのか、アイデアで勝負、の新しい屋台もツイほほ笑ましく眺めてしまう私なのでした。


                                     

 ・・・以下続く
(2006.3.10)



 


第二十五回 温暖化



 2006年は、季節なりの寒さに見舞われていますが地球の温暖化は正に進行中なのだということが、声高に叫ばれだしてから、既に久しくなりました。

 気象予報士の解説を耳にして「ああそうね」と思ったり、変な季節に台風に見舞われたりする時などは、温暖化を意識するひと時なのではないでしょうか。

 北京でも、ここ数年そう云ったことが感じられるようになりました。
 降雪こそ多くはないものの、2~3月の北京は本来、まだまだ寒さの残る季節。
  
 1989年の2月に短期留学で北京に滞在していた折は、慣れない乾燥と大陸性の寒気のせいで、早々にヘバっていました。
 その後90年代初頭の留学時も、飲み物や野菜などは、この時期なら窓の外に出しておけば適度に冷蔵庫代わりとなったものですが、今はどうか知らん・・・。

 偶然なのですが、1991年の北京旅行と、2002年の北京旅行が、全く同じ3月8日~11日という日程だった、ということがありました。
 1991年には雪がちらついて、日本での恰好+@のいで立ち。ツアーで連れて行ってくれるから行ったものの、雪景色に染まった万里の長城にも登りました。
 一方11年後はどうだったか、と言いますと、旅行中の最高気温は平均16~19度。実際それよりも暖かかったような気がします。手袋もマフラーも要らず、景山公園では桜が咲いていました。
 11年差の同じ頃に雪と桜、の違いです

 勿論、たまたまその年がそうだった、とか、たまたまその数日間がそうだったのかも知れませんが、現地の人に聞いても、この(2002年3月の)温かさは特に異常だ、とのことでした。
 その為か、この年は黄砂(砂嵐)が吹き始めたのも、通常より一月程早かったようです。もし渡航が一週間遅れていたら、対策も無しに現地入りして、間違い無く砂埃にまみれていたでしょう。写真比較どころではない、地球温暖化を体感してしまうところでした。

                                     


 ・・・以下続く

2006.3.1















第二十四回 春節・爆竹


 中国の伝統行事は、旧暦に従って行われるのが主流です。
 日本でも旧暦で雛祭りをする地方があったり、旧盆の習慣があるように、中国も二十四節気(旧暦で云う、季節の区分。大寒や立秋もその一部)が現在でも人々の生活習慣に密着し、根付いています。

 例えば新暦の1月1日は、ただの休日で中国ではそんなに盛り上がりません。
 中国でお正月と云えば、旧正月、すなわち春節のことを指します。人びとが一年で最も楽しみにしているお祝いのシーズン。ここから彼らの新年は始まるのです。

 家の門におめでたい絵や文字の書かれた春聯や年画を貼り、爆竹を鳴らして、家族揃って正月番組をTVで楽しむ・・・というのが、典型的な中国のお正月スタイル。

 ここ10年ばかりは保安上の理由から、特に都会で爆竹を鳴らすことが、原則禁止されていました。ところが最近法律が改正され、条件付きながら爆竹が「解禁」になったのは、人々の春節ムードを盛り上げる一助になるのではないでしょうか。
 「解禁」は、2005年12月から施行されています。

 となると、又アレが復活するのか、と個人的には思わなくもありませんが・・・。

 1992年の春節を、私は雲南は昆明で迎えていました。
 晦日にもなると、暗くなるのが待ちきれないかのように、町のあちこちで爆竹に火が点じられます。
 竿の先に長く垂らした爆竹が派手に鳴り響くのを、近所の人びとが取り巻いて見ています。賑やかな音で新年の幕開けを皆で祝うのです。

 しかし。祝うのは構わないのですが、特にこの日の夜歩きには気を付けないといけません。なぜなら、地上だけでなく空からも何が降って来るか分かりませんから。
 マンションのバルコニーから爆竹や、あろうことかロケット花火がシューッと飛び出す「奇襲」に見舞われたりして、結構危ないのです。・・・尤も今回の条例では、バルコニーや屋上で花火を発射したり、階下へ投げ落とす(!)ことは当然禁止となっていますが・・・。

 兎も角、晦日の晩は、本当に夜中じゅうどこかでバンバン鳴っていて、寝ていても爆音が耳に纏わりついたものです。
 初めての経験に、幸い行ったことはありませんが、戦場てこんなかな、と思いました。

                       

・・・以下続く。
2006.2.12









 




第二十三回 歌舞音曲紀行・ペルー篇


 高度障害のリスクをなるべく避ける為、ペルーの首都・リマで軽く身体を慣らしてから向かった古都・クスコにいよいよ到着した時、私は少なからぬ興奮を覚えていたに違いありません。

 「アンデス」という語で私などは単純にイメージしてしまう、フォルクロ-レな世界に、いよいよ突入だからです。
 何となく感じる空気の薄さすら、未知なる世界へ脚を踏み入れるワクワク感をかき立てるのです。

 着いた早々、何故か空港のターンテーブルの横で民族衣装姿の楽団が音楽を奏でてくれているのが、余計に旅情をそそります。
 しかし、空港のターンテーブルで楽団生演奏の歓迎(?)なんて、普通無いよな、とは勿論後で冷静になった時に思ったことです。


 クスコ入りした夜、私たちは、フォルクロア・ショウに出掛けました。夕食をしながらの鑑賞です。

 ショウで彼らが主に使用する民族楽器は、名称が判らなくとも、その音色を耳にすれば「ああ、この音か」と思われるものが、少なくないのではないでしょうか。
 アシで作った笛のシークやケーナ。ケーナは古くインカ時代から伝わる楽器です。小型ギターのチャランゴには、アルマジロの甲羅を共鳴胴に使われています。
 インディアンハープとも呼ばれるアルパは、5オクターブもの音域を紡ぎ出すと云います。
 ボンボという羊や牛の皮を張った太鼓も、独特のリズムを刻む、大事な要素を担っています。

 アンデス地方で多くの人口を占めるインディオは、顔かたち、背格好が何となく我々と似ていて、親近感を覚えます。
 人種的には、中米(マヤ、アステカ)と共に、モンゴロイド系。陸の続いていた太古の昔に我々日本人とも繋がりがあった、という説も納得が行く話だワ・・・なんて思っていたら、ショウの出演者に寺尾聡さんのソックリさんを発見してしまいました。

 それはさておき、有名な『コンドルは飛んでゆく』をはじめとした、彼らの音楽は、本当に私たちの琴線に触れるメロディー。素朴な民族性がよく現れているからでしょうか。

 翌日は旅のハイライト、マチュピチュ行きを控えていたのですが、この夜の音楽は、そのまま観光のヤマ場を迎える序曲となったのでした。

                                ・・・又「玉手箱」でお会いしましょう!
2006.2.4) 















 




第二十二回 歌舞音曲紀行・ベリーダンス篇


 2005年の夏休みで出掛けたモロッコで、ベリーダンスを観る機会がありました。

 夜遅いディナー後のショウ・タイムだったのですが、他の欧米人観光客も含め、それまで眠たそうにしていた皆が、豹変。踊り子さんは、一身にフラッシュを浴びていました。

 やはりビキニに腰布を覆ったような衣装や、エキゾチックな姿態に民族楽器が奏でるミュージック、となれば誰でもそのムードに惹きこまれることでしょう。

 アメリカや日本で稽古事や健康法の一つとして人気を集めているのとは別にして、この民族舞踊は随分と広い地域で踊られていたのだな、と思わざるを得ません。

 私自身数えればモロッコ、ギリシャ、トルコ、ロシアで数々の“艶技”を堪能してきたことになります。

 モロッコでは、もう少し体つきも妖艶な踊り手だったらもっと良かったのに、とオジサンのような感想が残りました。
 ギリシャでは、近寄って来た踊り子さんが結構オバサンで驚きました。
 トルコでは、バザールにベリーダンスの衣装がずらーっと並べて売っているのに、その浸透度が伺えました。
 ロシアでは、気恥ずかしくて折角用意したチップのお札を、胸や腰に挟んでやるのではなく手渡しをしてしまうという野暮をしでかしました。


 それはさておき、調べてみますとベリーダンスは、その起源に諸説あります。砂漠の民ベドウィン族の踊りや、エジプト、中近東のアラブ諸国の王宮に伝わる舞踊から発祥した、等々です。

 現在ベリーダンスの本場というイメージの強いトルコでは、オスマン・トルコ時代にインドから音楽家や舞踊家を招聘して、宮廷の芸能人が学んだとされています。この舞踊にはインド舞踊の要素が採り入れられている、とも言われている所以です。

 又、風土的に見れば、砂の上ではステップや跳ねる動きが取り難く、よって地に足を付けた、限られた状態で踊る為に、腰や胴体をくねらせるなど、女性の体型を活かした独特な動きが生まれたのだろう、とされています。

 ヒトが全身を駆使して、その心情や感動を伝達する表現方法の一つである舞踊の原点を、ここにも又見ることが出来ると思います。

                                   
・・・次はペルー篇!!
2006.1.26







 




第二十一回 歌舞音曲紀行・北朝鮮篇


 北京時代に、機会あって北朝鮮を旅行しました。北京在住の日本人を当て込んで、中国の旅行会社が企画した、最初のツアーでした。

 現在は日本からも商品としてツアー旅行が出ていますが、制限や事情による内容変更も余儀なくされているのが現状なようです。参加された皆さんの満足度はどうなのでしょうか。
 でも、少なくとも現時点においてはそう簡単に行ける国ではなく、きっとそうした不測の事態をも、旅の良き思い出になさる方が大半ではないでしょうか。

 私たちの北朝鮮ツアーも、初日から予定に組まれていない行程が、入国早々に伝えられました。

 それは夕食後にコンサートを鑑賞する、というものでした。
 マ、そういうことなら・・・と、異論も無く連れて行かれたのは、平壌市内の万寿台芸術劇院。
 夕闇に白くそびえる大劇場を、入国したばかりで未だ緊張のほぐれないままに、キョロキョロしながら入場したものでした。
 誘導係として、チマ・チョゴリ姿の綺麗なお姐さんが、劇場入り口に立っていました。
 ボーっと見とれていると、その胸には金日成主席バッジが。やっぱりココは北朝鮮なのでした。

 公演は、歌、舞踊、演奏が多彩に組み込まれて、あっという間でした。
 後で聞きますと、全ての演目は一貫して、金正日総書記(ポスト名は現在)を称える内容で、一つのストーリーになっている、とのことでした。
 そう言えば確かに、金総書記が生まれたとされる白頭山中の丸太小屋を背景にした、ヴァイオリンの演奏もありました。曲目は分かりませんが、きっと金総書記誕生の物語を描いた曲だったのでしょう。

 しかし、やはりと言いますか、外国人にも自信を持って見せるだけのことはあります。
 彼らの水準が相当なものだとは、シロウト目(耳)にも判りました。
 恐らく国が総力を以って人材を選別、徹底的に英才教育を施した結果の一つがこれなのだと思うと、是否はともかく、教育というものの凄さ、大事さを思わずにはいられません。

 ごく普通の家庭に育った日本人の子供が、妙な平等意識を主体にした教育の元に「フツー」である、或いは「没個性」などと嘆き半分で称されているのは、これ又現
在における日本の教育姿勢の賜物なのであります。
 そうは言っても、後々他より抜きん出た才能で世の中に貢献する人や、個性的とされている人が、そういう処から出て来ることだって少なくないのですから、捨てたものでもありません。

 ヒトはどうとでもなり得る恐ろしさがありますが、一筋縄で行かない面白さもある。だから人間、なのでしょうね。

                                   
・・・次はベリーダンス篇!
2006.1.19