中国今昔玉手箱-江南春琴行

かずよさんの『中国今昔玉手箱』

【第三十一回-第四十回】




第四十回 北京住宅変遷記~M氏の場合~5


 旧知の友人、M氏の住居の変遷を中心に、簡単に述べて来ました。

 参考に、2、3軒目のマンション購入費用を記しておきます。

 2軒目:32万元(敷地内の駐車場代込・面積130平米)
 3軒目:50万元(マンション地下の駐車場代込・面積40平米)

 3軒目の方が、面積は3分の1でも価格は倍近いのは、市中心により近い為、ということでしょうか。
 見た感じでは、投資目的のみでマンション価格が月単位で倍加し、住人が存在しない建物群は、北京では未だ、上海のそれには及ばなそうです。しかし、これからの数年で事情に変化が見られるかも知れません。

 立ち退きや、マンションの購入、都市計画には、それに伴う政策や税制など、色々複雑な背景が絡むでしょうが、法制は、その土地その時によって異なるし、それが良いのか悪いのかは、ここで触れることではありません。

 北京という都市が発展を遂げる渦中で、共に変わってゆく市民生活の一例としてここで紹介出来ましたのは、たまたま一つの家庭を、友情にも恵まれて20年もの歳月で追うことが出来た、時の産物と思っています。

 M氏夫妻は現在、各々が車で動いていますが、自家用車の普及率も近年、著しく上昇しています。そう言えば中国の風物詩たる、自転車の数も、大分減りました。
 高速道路、環状道路、バスや地下鉄、電車の路線等に見られる交通網の拡大。それらは皆、北京市民の生活圏が外へ外へと広がっていくのに比例しているのが、看て取れます。

 人びとの行動範囲が広がれば、環境も変わります。日本も、かつて同じような道を歩んだに違いありません。大気汚染や交通事故の増加、果ては子供の教育問題や老人福祉等々、思いがけない分野での、新たな問題が生まれてくるのは必至でしょう。

 開発の名のもとに、昔のたたずまいがどんどん失われる中、一方で歴史ある四合院をレストランや宿泊施設に改装して利用されているのが、今北京ではちょっとした流行になっています。
 そして2004年には、四合院を個人が購入、保護することを奨励する政策が打ち出されています。
 改築には細かい規制があるものの、既に数十軒の四合院が破壊から免れているそうで、旧い建物を見るのが好きな私としては、どんな形でも昔のものが保存されるのは嬉しい限りです。

 都市とは、常に変わっていくものらしいことは、既に明らかなこと。でも、建物と施設だけで都市が形成されるものでもありません。ヒトとヒトの情も含んだ、あらゆるものの新旧調和とバランス、これが住人や訪れる人たちを魅了する都市の課題、ではないでしょうか。

                                  

 ・・・以下続く
(2006.12.10)










第三十九回 北京住宅変遷記~M氏の場合~4



 
 M氏の3軒目のお宅の中でも特に秀逸なのは、現代日本住居でも少なくなってしまった、和室。

 日本での生活経験があるからとは言え、M氏宅の和室は、本当に良く出来ています。我々日本人から見ると?と思うことがありがちな「ガイジンの日本趣味」たる雰囲気が殆ど感じられず、寧ろ、参考にすべきアイデアが、随所に見られました。

 間取りは、四畳半の空間を挟むように押し入れ、違い棚、床の間が設えられており、収納もスッキリ。
 窓際に沿って最初から作り付けられてあるスチーム暖房機は、入り口側から見えないように、和室の高さが合わせてありました。窓に向かって腰を下ろすスペースが空けてあり、窓越しの景色も楽しめるようになっています。これは、中国人には正座の習慣が無く、椅子に腰掛ける生活スタイルなのと、ひょっとしたら日本の縁側からも、ヒントを得たのかも知れません。

 そして、上がりこむような高さのある和室には、もう一つ理由があったのでした。
 部屋を見回している私に「見てて」とM氏はおもむろにリモコンのスイッチを入れました。一体何が始まるのかと思ったら、和室の真中にある半畳畳がせり上がって、何と掘りごたつ式のテーブルが現れたのでした。
 この電動テーブルは、日本にもある商品らしいのですが、私は初めて知りましたし、実物を見るのも、勿論初めて。
 しかし電動テーブルだけでなく、障子やふすま、畳も全て中国製。日本のメーカーが進出、製造しているのを、中国国内向けにも売り出しているのだそうです。
 長期滞在型の、日本人駐在員向けの住宅なら、少しは需要があるでしょうが、一般的にはどうか知らん・・・・。

 では、単刀直入に、和室は中国人に人気があるか、否か。
 M氏によると、和風インテリアは人気があるものの、実際中国人の住まいにおける和室の普及率は、北京でも未だかなり低いだろう、とのこと。というのは、やはりコストがかかってしまう為。
 因みに、この部屋の内装工事費用内訳を教えて貰いました。
  キッチン部分とリビング:13,000元(1元約15円くらい)
       バス、トイレ:17,000元
           和室:24,000元
 和室、ダントツ。やはり高くついてしまうから敬遠されてしまうのか。

 しかし、それも和室の良さを皆が知らないからでしょう、とM氏は自ら設計、指示して造った和のお城に、ご機嫌な様子でした。

 夜の訪問にも関わらず、ついつい長居をしてしまったのは、ただ感心しただけでなく、この和室に安らぎを覚えてしまったからでした。
 和室の良さを日本の外で再認識しようとは、何とも不思議な話ではあります。
                                  

 ・・・以下続く
(2006.11.26)









第三十八回 北京住宅変遷記~M氏の場合~3




 中国で販売されているマンションは、水道や電気の栓と、バス、トイレ部分のスペースが定まっている以外、中身が空っぽであることが普通です。
 最近では内装も家具も全て揃っていくら、のタイプも出回っているようですが、まだまだ内装は自前で、というのが主流。しかも、職場から与えられる昔ながらのアパートならば、せいぜいがバルコニーに窓を張りめぐらせてもう一部屋増やすくらいでしたが、今は違います。
 インテリア関連の書籍が、日本より充実しているように見えるのは、恐らくそのためでしょうし、内装や家具に凝るのは、それだけ世の中が豊かになった証拠でしょう。建材を扱うお店でも、色々揃うらしいのです。

 北京東駅を間近に臨むM氏の3軒目のお宅へは、2004年に内装工事が完了し、住み始めて間もない頃にお邪魔しました。

 24時間体制の門番とオートロックの入り口で、外部の者が誰でも侵入出来ないような構造も、北京ではもはや珍しくはないようです。

 エレベータで上階へ上がる際、昔は箱の中で椅子に座って編物などをしながらボタンを押してくれるオバチャンがいて、停電で使用停止になることもしょっちゅうだったけれど、そんな姿ももう見られなくなって久しいなあ・・・などと考えていたらアレレ?確か26階のはずだったのに、着いてみると廊下の表示が29階になっていました。??
 このややこしい階表示は、中国語で「四」が「死」と通じる音なので、4の階が設定されていないことから生じているのです。風水を重んじ、意外と?迷信深い中国人の考え方が反映されていて、面白いです。現実的には、エレベータのボタン部分を住人が迷わないように、設定階と実際の階が併記されていました。

 それではイザ、お宅拝見。ワンルームの部屋をここまで改築出来るのか、しばしここが北京であるのを忘れてしまうような空間がそこには広がっていました。
 キッチンはオープン。フローリング床のリビングに、バス、トイレ、そして和室の組み合わせ。

 この瀟洒な住まいを、配線を何も全てをM氏自らが設計、指示をし、材料も吟味して調達。それでも素人だというのですから、本当に驚きです。

                                  

 ・・・以下続く
(2006.11.4)














第三十七回 北京住宅変遷記~M氏の場合~2


 

   2005年当時、M氏は3軒の部屋を購入、所有していました。証券の儲けでなのかは、私の関知することではありませんが、とにかくヤタラと羽振りがよろしい。しかし後から買うにしたがって、家が市中心に近付いているのは、これ又「Uターン現象」だと言えるのでしょうか・・・。

 私は写真でしか見たことがありませんが、他人に貸している1軒目のお宅は、北京郊外に建っています。

 北京から天津方面に高速道路を少し行った所にある、2軒目のお宅と北京市中心にごく近い複合都市計画の一角を占める3軒目のお宅を、愛犬と共に好きな時に好きな方で過ごすという優雅な生活を、M氏夫妻は現在送っています。何とも羨ましい話です。

 2軒目のお宅へは、2002年に北京を訪れた際、一度連れて行って頂いたことがあります。
 マンション群と、住民が憩う公園、簡単な買い物が出来る商店が敷地内に備わった、郊外型の集合住宅。高速道路の利用にも便利な立地に建つ、2軒目のお宅は130平米、2LDKの間取りでした。

 よく、テレビで有名人のお宅拝見といった番組を見ると、生活感がまるで無く、本当に使っているのか疑わしいものに出くわします。確かにM氏宅も、私がこれ迄に見てきた中国の一般的な家庭に比べると、差があり過ぎる程に整っている類ではあります。
 しかし、例えば厨房で言えば、実際調理の場面を見なくとも、ここは紛れも無く生活の場として根ざしていることが、私には判りました。
 主にドイツ製のツールでまとめられたシステムキッチンは、大変スッキリ。目線の高さに合わせて食器洗浄機やオーブンが据えられ、下部空間を有効に使う為の工夫が施されていました。
 そこに最初に彼らが住んでいた四合院の部屋で使われていたオーブンが納められていたのは、後日昔の写真を見比べていて気付いたことです。この日本製オーブンは、優に10年以上使われている筈。聞けば2005年の時点でも健在とのことで、今度は逆に驚きです。

 少なくとも大都市において、中国でも大量消費の時代に入っていると言える昨今、このようなモノを大事にする心意気を見ると、なんだかとても嬉しくなってしまうのでした。




 
                                  

 ・・・以下続く
(2006.10.21)











第三十六回 北京住宅変遷記~M氏の場合~1


 

 2005年2月末に、約3年ぶりで北京を訪れました。

 現地に駐在している知人などからも伝え聞いて判ってはいたものの、やはり直接目の当りにすると、その都市の変貌振りには、驚きと遺憾の意は隠せませんでした。
 10年前には無かった道も多く、主要道路の道幅は拡張されていました。以前は人が住んでいなかったような場所にもマンションが建ち、市中心部に昔から住んでいた人々の移住計画も、どんどん進んでいるようです。

 そんな中、やはり3年ぶりに再会した中国の友人M氏は、前述の通り、時代の流れ甚だしい北京に住まう若い世代の典型、と私自身は位置付けています。つぶさに、とはとても言えませんが、20年来の付き合いで、自分なりに彼らを観察しての印象です。
 彼らの経歴と同様に、その住まいもかなりの変遷を経ていることから、私が実際に家庭訪問したレポートを、しばらくお届けしたいと思います。

 M氏夫妻のお宅を初めて訪れたのは、1991年は国慶節(10月1日)の頃だったと記憶しています。
 彼らが教鞭を執っていた学校から歩いて数分、買い物客で賑わう繁華街・西単(シーダン)のすぐ裏、という好立地に建つ四合院の一室でした。
 清の時代には、この辺は貴族や高級官僚などが住まう地区だったそうで、夫妻のお宅も、そうした建物の一つだったと聞きました。

 四合院は、本来は中庭を囲むようにして家屋が配され、一族が家族単位などで各部屋にそれぞれ住まうものでした。
 新中国成立以後は、計画経済に則り、国や職場が住居を分配する方式となった為、伝統的な四合院の多くは長屋式に区切られ、全く異なる数家族が共同で住むようになったのです。

 私が初めて訪れたM氏宅も、この分配方式で供給された部屋でした。他の住民の部屋を覗く機会はありませんでしたが、M氏のお宅には、机、ベッド、箪笥、テレビ、冷蔵庫、・・・と大概の必需品は揃っていて、私が言うのも何ですが、狭い空間で上手に暮らしていました。

 しかしこの四合院を含む一帯は、90年代半ばから急速に進んだ区画整理により、残念ながら立ち退きを余儀なくされてしまいました。
 日本と違い、中国の立ち退き処理は大変迅速です。つい三日前まで人が住んでいた家が瓦礫の山と化すのは、中国ではそう珍しいことではありません。
 M氏によると、彼らに対する立退き料は1平米辺り、2,100元(当時1元約18円位か)。支給された立退き料は、新しい家を買う足しにしても良し、貯金しても良し、でどう使おうと自由だったそうです。
 こうしてM氏夫妻も、周辺の住民も皆移住して行きました。

 彼らが住まっていた界隈は、私が2002年に北京を訪れた折は、整地中で一部立ち入り禁止となっていました。2005年には、わざわざ車で通ってみましたが、やはり何の面影も残っていませんでした。

 古都の裏通りらしいのどかな風情も、ガラスと鉄筋の建物に占拠されて、今はもうありません。

 
                                  

 ・・・以下続く
(2006.9.30)








第三十五回 有縁千里



 

 1985年、青少年洋上セミナーで初訪中した時のことです。

 日中友好育むという趣旨から、単なる物見遊山に留まらず、この時の旅程には様々な活動や催しが組み込まれていました。
 その活動の一つ、北京市内の高校への交流訪問で、私たちの班が割り当てられたのは、市内随一の進学率を誇る中学(日本の中学、高校は、中国の初級中学、高級中学に相当)でした。
 学校の講堂で開かれた交流会で、たまたま同じテーブルに着いていた中国側の一人が、私の最も旧い中国の友人、教師だったM氏でした。

 スッカリ忘れていたのですが、どうやら私が訪問した先々で配っていた住所交換のメモを頼りに、後日お手紙を下さったのが文通の始まり。以来20余年の大半は細々とではありますが、主に紙の上での付き合いが続いています。
 その間双方それぞれが、国費留学生としてお互いの国に2年滞在し(M氏は大阪外国語大学、東京学芸大学。私は北京大学)、私や家族の者が北京へ行くことがあれば、少しの時間でも会っていましたから、思えば不思議なご縁です。

 さて、現在の彼は、と言いますと、夫婦(奥様も元は同校の教師)共に教職を辞し、現代中国知的若夫婦の典型たる転身を遂げます。

 M氏は、この若さ(40代)にして某学院の副院長に就任。たまに教壇に立つこともある、という生活。元は歴史の教師でしたが、現在受け持っている講義は、なぜか証券などの経済関係。実際に証券取引もしていて、結構羽振りが宜しいようです。
 奥様は元化学の教師でしたが、現在は某香港服飾メーカーの北京地区代表として、超多忙な毎日。
 あらゆる面で今正に伸びゆく、元気な中国の時流に見事乗っかったようなお二人ではあります。

 それでも両名共育ちの良さゆえか、ガツガツ・ギラギラ、という感じは皆無。だからこそ私も今日まで付き合いも続けているのでしょうが、さり気無くスゴイ所がスマートで、なかなか格好良いのであります。

 彼らの華麗な経歴を見ながら、フト我に返ると、一体自分は・・・、と思う時もあります。行き当たりバッタリ人生の私とは随分な差です。

 私自身は大したことも出来ない人間ですが、それでもせめて誠実に、孔子の言葉のように、彼らにとって会うたびに「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」な存在でありたいと思っております。

                                  

 ・・・以下続く
(2006.9.10)











第三十四回 ストロー 2



 中国の紙製ストローは、それ以前は不明ながら、1980年代の訪中経験者は、見たことがおありだと思います。私もその内の一人な訳です。

 紙製といっても、ロウか何かで表面をコーティングしてあるらしく、一応液体にすぐさま溶けてしまうものではありませんでしたが、それでもやはり、紙は紙。ストローを挿したまま暫く置いておくと、水分を含んだ先端部分が縮まり、管が塞がれてしまうのです。
 そうなると、口元でいくら力を入れても、ジュースはなかなか吸い上がって来ない。

 最初は紙製だと気付かず、一生懸命口をすぼませていた私は一体、愛すべき奴なのか、単に間抜けな奴なのか・・・・・。

 サッサと飲んでしまえばこんなことも無いのでしょうが、結局どうするのかなあ、と他の中国人の所作を見ていますと、傍らに用意してある、別の新しいストローを挿していました。ストローのお代わり、です。
 ポリプロピレン製のストローを当然としていた私には、一寸した驚きでした。

 紙製のストローがあまりに珍しくて、この時何本かの現物を日本に持ち帰ったものが、今も我が家の何処かに眠っているはずです。

 この紙製ストローは、1989年に私が短期留学で再訪中した際にも未だ現役でした。しかし、1990年代初頭に長期留学で滞在した北京には、既に無かったように思います。

 その後、日本における紙製ストローの話を採取しようと、少し年配の方にも伺ってみたのですが、今の所、記憶に留めておられる方はいらっしゃいません。
 もしかしたら、紙製ストローは、中国オリジナルなのかも。

 どなたか日本もしくは中国その他の国のストローの歴史について、ご存知の方がいらしたら、ご教示願ってみたいところです。

                                  

 ・・・以下続く
(2006.8.26)









第三十三回 ストロー 1


 身近で当たり前に存在するのと同じものが、所変わって見当たらない、存在しない(ようだ)という状況に遭遇したこと、ありますか?

 私がその一つとして思い出すモノに、ストローがあります。

 1985年夏の北京も暑かったのですが、例によって立ち寄る所は何処でも歓迎ムード。
 迎えた私たちに、少しでも暑さをしのいで快適に過ごしてもらおうという心づくしが、至る所で見られました。

 そのサービスの現れとして、飲み物がよく振舞われました。今でも観光ツアーで連れて行かれるお店などで飲み物が出てくる、アレです。
 当時は未だ缶入り飲料の技術が発達していなかったのか、缶ジュースよりも、瓶で出されることが多かったです。時には四角い紙パック入りジュースが出てくることもありました。

 味はオレンジの他、スイカやライチ、桃などもお目見えしていたと思います。既に中国らしい風味が、バラエティーに展開されていたのが印象的でした。
 当時で比較してみると○○味、というフレーバーに関する種類の豊富さだけで言えば、日本より中国の方が先を行っていたかも知れません。

 とにかく、初訪中で最もお世話になったのは瓶ジュースですが、中味はオレンジジュースが主流。昔懐かしい、粉末ジュースっぽい飲み口だったと記憶していますが、暑い盛りにはそんなこと、どうでも宜しい。出されるままに、グビグビやっていました。

 しかしこの瓶ジュース。最後まで飲みきるには、一手間が要ったのでした。
 勿論、ラッパ飲みでもすれば別ですが、瓶に挿してあるストローが紙製だったせいです。

                                  

 ・・・以下続く
(2006.7.30)











第三十二回 糧票 3



 細かいことはよく判りませんが、糧票は全国版や地方版もあったようです。穀類そのものを買うためだけではなく、穀類製品を買うのにも必要でした。

 ギョウザやシュウマイの専門店などでは、現在でも斤(ジン・1斤は500グラム)の単位でメニューに載せていることが、ままあります。その食べ物を作るのに要った、小麦粉の量を示しているのです。慣れていないと、注文の際に戸惑ってしまうかも知れませんね。
 余談ながら、日本でも人気の小籠包(シャオロンバオ・日本だとショウロンポーと、何だか日中チャンポン?のような音で通っていますが)や蒸しギョウザなど、セイロで作るようなものですと、籠(ロン・1セイロ2セイロ・・・と言うのでしょうか)が単位になることもあります。
 日本だと一人前何個、と云った表示でしょうが、そこはおかずではなく、主食の一つとしてギョウザやシュウマイを食する国民性ならではでしょう。

 南京ではサンザンな思いをした糧票でしたが、時が下って北京大学留学時には、私も中国の友人が分けてくれたのを持っていました。

 生活が苦しかった1950、60年代には、配給切符を他人に譲るという行為は、恐らく考えられないことだったのでは、と思います。
 しかし90年代に入ると、食糧の国内総生産量が飛躍的に伸びて、既に配給制度そのものが無実化していた、ということだったのでしょう。

 結局、自分で使うことが殆どなかった切符は、記念に日本へ持ち帰り仕舞ってあります。
 何かの拍子で目にすることがあると、当時を懐かしく思い出します。しかしその思い出は、大概は1、2でお話ししたような、残念ながら惨めさが付きまとうものばかりでした。国や社会制度の違いを体感出来た、そういう意味では貴重だったかも知れませんが・・・。

 近頃では、中国国内でもコレクターが存在している糧票。「最古の糧票を発見!」といった話題が、新聞紙上を賑わすこともあります。

 現地でもそうなのですから、ヨソの国では尚のこと。糧票は若い人の知識としてすら留まらない程、旧い時代の遺物となってしまいました。
 私より5級くらい下の年代になると、大学で中国関係の勉強をしていた人にですら、糧票のことをネタにしても「何ですかソレ?」という顔をされるのです。

                                     

 ・・・以下続く
(2006.7.7)











第三十一回 糧票 2



 時代は北京大学留学の頃を更に溯ること数年、糧票がもっともっと効力を奏していた、1989年は南京でのお話です。

 南京に旅行で来ていた私は、短期留学で一緒だった友人と繁華街を歩いていました。
 その時、食堂の表にせり出した大きなセイロから、ホカホカの湯気が立ち込めているのが見えました。人だかりをかき分けて湯気の主を確かめると、そこには顔の半分もあるか、という大きな肉包(ロウバオ・肉饅頭)が。外で売っている食べ物って、どうしてこう美味しそうに見えるのでしょうか。

 「食べたいねえ」。友人と二人、顔を見合わせました。
 人民に混じって「下さいな」と言ってみたものの「◎×△$・・・」何か返答している。
 どうも糧票が無いから駄目だと言っているようなのですが、ここは知らんフリで又「下さいな」を繰り返してみる私。
 こういう場合、生半可な語学力で中途半端な問答をするよりも、全く言葉を解さない風を装った方が、コトが巧く運ぶことがままあります。ひょっとして、根負けして売ってくれるかも。
 しかし、虚しくも頑として売ってくれる気配ゼロ。ちぇ、と思っていると同行の友人は、やおら食堂の中に入って行きました。
 私も後について行くと、友人は腰をかがめて店内をウロウロしていました。☆!そうか!!彼女は店の床に糧票が落ちていないか、探していたのでした。
 果たして!彼女はボロボロに黒ずんだ糧票を床の隅から見付け出したのです。やったー!
 でも、この糧票で一体何個買えるか知らん・・・。
 でも、もはや数の問題ではありません。(食い)意地の問題です。そうして差し出した糧票と、値段は忘れてしまいましたが、幾らかのお金と引き換えに、私たち二人の手に肉包は手渡されたのでした。
 勝利(?)の味を噛み締めつつ肉包を頬張ったのは、言うまでもありません。

                                     

 ・・・以下続く
(2006.6.19)