中国音楽 音像資料 音楽教室 江南春琴行  

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ホームかずよさんの中国今昔玉手箱 1-10
中国今昔玉手箱-江南春琴行

かずよさんの『中国今昔玉手箱』

【第一回-第十回】

第十回 国慶節


  旧暦でお祝い事をすることが多い中国の祝日ですが、現代中国人の大切な日の一つ、国慶節は毎年、新暦の10月1日となっています。

 建国記念日であるこの日は、学校や企業が一斉に休みとなります。
 大型連休化が進んでいる中国なので、休みの長さは一週間かそれ以上の所も現れました。
 春節(旧暦の新年)やメーデーに並び、中国と取引きのある外国企業は、この時期何らかの影響を受けている筈です。

 国慶節休暇の期間中は、外食や行楽に出かけるなど、各地で楽しく過ごす姿が見られます。
 北京の天安門広場は毎年、花や噴水などで美しく飾り付けされ、そのディスプレーを見物しに訪れる市民や観光客で賑わっています。

 休日ということに加え、この記念日にあやかって入籍や結婚披露パーティをする中国のカップルも多いようです。

 私もさる年の10月1日、友人の披露宴に招待されたことがあります。

 当日は新郎である友人が、朝から新婦を迎えに行き、二人で新居に入ります。そして新居を見に来ている(「看新房」という習慣)近所の人や友人に、用意してある飴やチョコレートを口に運んでもてなしていました。

 ちなみに中国語で「あなたはいつ、私に飴を食べさせてくれるの?」と問えば「結婚するのはいつなの?」のセリフと同義。飴を食べさせてあげる行為は、幸せのお福分け、に通じるのでしょう。

 そして時間になると、皆で移動。街中のレストランを借り切って、親戚一同、友人、会社の人たちを大勢招いての、大披露宴が行われました。

 披露宴で供される食べ物は、特に決まっていない、とのことですが、中国では食べ物に限らず、縁起の良いモノを同じ発音のモノに転じて表すことが多いので、このような席でのメニューも自然、おめでたい名前のメニューが並ぶことになります。

 食材も同様で、例えば豚(中国語では「猪」と書きます)は、同じ発音の「畜」(ヂゥ)とかけた、好例。
 魚も「余」(ユィ)に通ずるので、お祝いの席にはよく出される食材です。生菜(シォンツァイ・レタスのこと)は「生財」、髪菜(ファーツァイ・もずくの一種)は「発財」に、と共に財を成すという意味で縁起を担ぎます。
 いかにもお金儲けが上手な、中国人らしい発想です。
 こういう目で宴席のテーブルを覗くと、ただのご馳走では無くなるのが、中国料理の面白い所です。

 近年、日本のような専門式場がお目見えして選択肢がどんどん広がり、中国のカップルたちも随分迷わされるような時代となりました。
 しかし時代変われど、場所がレストランや自宅であろうと、いずれにせよ気前良く大判振る舞いをし、皆に祝って貰う形式には、変わりが無いようです。

                                     
 ・・・以下続く
(2005.10.1)








第九回 ノート


 北京大学の授業は、午前4コマ、午後4コマ、そして夜2コマ。夜の授業が終わるのは9時過ぎです。

 人気講師の授業は、夜の授業時間でも教室から学生がはみ出す程。
 学内の図書館も、中国人学生がビッチリと席を陣取って、夜遅い閉館時間までねばって、皆頑張っています。

 特に地方から出て来た学生は大概、故郷の期待と誉れを背負って進学しているでしょうから、彼らから見れば私など、甘チャンもいいところだったのではないでしょうか。
 最近はそうでもないでしょうが、入学したらもう安泰な「トコロテン方式」に浸った日本の大学生とは、随分異なるのです。
 彼らを見ていると自然、学生の本分、という言葉が頭をよぎります。

 実際一緒に机を並べていて、へえー!と思ったのは、中国人学生のノートのとり方でした。

 私が受講していた授業の形式は、学生の質問や発言は後で受け、まずは講義を聴いて、というのが殆ど。
 通常我々がノートをとる時は、自分なりにポイントを整理しながら箇条書き、が多いでしょう。一方、中国の学生たちは、まるで速記者の如く先生が話す端から、講義内容を一語一句洩らさないよう、どんどん書いていっていました。
 それとも授業中はそうしておいて、後で復習の時に自作ノートを密かに作っていたりして・・・。

 想像はさておき、私は講義のレベル以前に言葉の問題も大きかったので、この「速記ノート」をお借りすることが幾度かありました。彼らのノートは流れるように崩して書いてあるので、非常に読みづらかったのを覚えています。

 因みに彼らの筆記用具は万年筆かボールペン。鉛筆は、中国ではせいぜい小学生までが主に使うものなのだそうです。

 皆が皆、ガリガリとノートにしがみついて書いている様を思い浮かべると、何となく可愛げが無いようですが、しかしそこはソレ。オツムが良いコは、要領もやはり良い。
 前の席に座っている学生のノートを借りて休み時間にサーッと書き写して済ませたり、何人かで組んで交替でノートをとっているグループもいるはで、真面目一辺倒ばかりでないのが、なかなかに面白い。

 結局人間色んな人はいるし、考えることはいずこも同じ、なようです。

                                     
 ・・・以下続く
(2005.9.26)






第八回 キャンパスライフ

 中国の学校は、欧米と同様、9月に始まります。
 基本的に学生生活は月曜から土曜まで、カリキュラムに沿った授業を受け、日曜は休日、冬休みと夏休みを間に挟み、前後期末にそれぞれ試験が行われるというサイクルで一年を過ごすのです。

 中国の大学は留学生だけでなく、中国人学生、教師も皆、構内で大学側が供給する環境で生活するのが基本でした。教師は一家で官舎に住み、学生は寮生活です。
 教育施設に必要な教室、視聴覚室、図書館は勿論のこと、住居、風呂屋、銀行、郵便局、雑貨店、映画館などの娯楽施設までがキャンパスの一角を占め、一つの街のように形成されています。これは日本の大学環境と大きく異なる点でしょう。

 中国の大学に学ぶ留学生は、中国語の学習をメインにしている語学研修生、各自の専門分野の研究を勉強する進修生、中国人学生と同じ、四年制のカリキュラムに則って勉強する本科生に大別されます。他にも芸術関係や武術、中医(鍼灸、漢方医学)方面の留学生も、少数派ながらおられるようです。

 私は1991年から2年間、中国政府奨学金留学生として北京大学は中文系という、日本で云う所の中国語・中国文学科の普通進修生として籍を置いていました。

 一応専攻は中国現代文学。
 現代文学の大作家、老舎に興味がありながら、さりとて本人は優秀な学生だったとは言い難く、学業面では大したことも出来ませんでした。
 そのような個人的な引け目だけでなく、あくまでも自分が感じた雰囲気ですが、当時は1989年に起こった天安門事件の爪跡も完全には払拭されておらず、しかも国中の秀才が集う北京大学、ということで、最初の頃はかなり緊張して授業に出席したものです。

 が、フト気が付くと、机の下で英単語を暗記していたり、堂々としたところでは大きなヘッドフォンで音楽(或いは語学教材か)を聴いている、つまり内職をしながら聴講する中国人学生も見受けられたので、何となくホッとした記憶があります。
                                     
 ・・・以下続く
(2005.9.02)







第七回 思ひ出 2

 陳真先生には、その後私が北京へ留学することが決まった際「中国でしか出来ないことをして来て下さい」とはなむけの言葉を頂きました。
 その時其処でしか出来ないことを。それは確かに私のモットーとして、今でも私の心に刻まれている言葉です。

 私の北京滞在期間中は、先生にとっては日本と中国を往復する、最もお忙しい時期に当たっていたと思います。
 日本でのお仕事の他に、北京大学の漢語中心(語学研修センター)でも教鞭を執っておられました。

 北京大学のキャンパス内で先生に偶然再会した折には、遊びにいらっしゃいよとご自宅へ招んで下さり、後日お邪魔したことがありました。

 お住まいの、北京放送職員宿舎の場所が判り難いでしょう、と親切に行き方を教えて下さり、伺うとバルコニーで手を振って待っていらしたお姿が忘れられません。
 昼食を挟んで沢山のお話を聞かせて頂きました。戦前に暮らしておられた日本でのこと、中国へ帰国してからのこと・・・。

 自分の勉強不足を晒すようで何ですが、「定年退職する」という意味の中国語は通常「退休」と習うと思いますが、解放前に入党(革命に参加)した人の場合は「離休」と言うのだということを、先生のお宅で初めて教えられました。

 先生は在宅時も、しょっちゅう電話が入って、お忙しそうでした。
 ある電話ではずっと日本語で、しかもかなりくだけた調子でのお話しぶりだったので、一体相手はどなたかしらと思ったら、姉上様からの電話とのこと。姉妹でも日本語で通すほど素晴らしい日本語なのに、ご本人はまだまだ、と仰るのには、本当に我が身が縮こまる思いでした。

 ・・・結局お会いしてゆっくりとプライベートなことをお聞きしたのはこの時だけで、もっと機会を持てなかったものだろうか、と今更ながら悔やまれます。

 本当に残念です。
 ご冥福をお祈りしたく、先生の初盆に一筆させて頂きました

                                     
 ・・・以下続く
(2005.8.20)








第六回 思ひ出 1


 2005年の年明け早々、悲しい報せが届きました。
 NHKテレビ中国語講座などで御馴染みでした、陳真先生の訃報です。
 北京放送時代からのファン、TV講座や、先生の著書などで中国語や中国の世界へ誘われた皆さん・・・、多くの方々がショックを受けられたことでしょう・・・。
 各々が先生との思い出を、それぞれにお持ちのことと思います。
 私にもここで少し、思い出話をさせて下さい。

 1991年、先生が来日されて恐らく最初のお仕事だった、NHKのテレビ講座で私は(名前だけはカッコいい)スタジオ・ディレクターのアルバイトをしていました。
 番組に使う小道具を用意したり、台本に沿ってテロップ(画面にかぶせる文字)を機械に組み込んだり、Q出し(出演者に話し出すきっかけを指示すること)をしたり・・・。
 色々あって面白かったです。

 陳真先生を初めてスタジオで紹介された時は、流暢な日本語のせいだけでなく、本当に中国人なのかと心底オドロイタものでした(それまで目にしていた中国人のオバサン像とは大分異なっていたので)。

 当時の番組作りには、未だCGが導入されていませんでしたから、テキストの文章を音読練習する際は、ボードに書かれた文章を先生が棒で指しながら読んで行っていました。
 そういう時に、次のボードへフリップ(紙芝居のようにめくること)していたのは私(ともう一人の相棒)でした。

 先生は背の小さい方でしたから、用意した椅子の高さが間に合わず、道具方で木枠の台を作り、その上に椅子を載せて座っておられました。
 気を遣われる方で、他の出演者やスタッフの方と撮った写真を焼き増しして、丁寧に言葉を寄せて下さったのを覚えております。

 空色など青系の色がお好きだと仰って、衣装も地味めなのが多かったようですが、却って清潔感がそのままにじみ出ておられました。その上品な物腰に相まって、講座放映時は相当にファン層が広まったのでは、と思います。
 実際、服作りをしている私の母は中国語など一つもやりませんが、TVを観ていて先生にこんなのどうかしら、と衣装を作って差し上げたいことをよく言っていました。


                                     
 ・・・以下続く
(2005.8.15)



第五回 トマト 2


  因みに、トマトの原産地は南米ペルー。
 大西洋を越えてやって来た征服者達が、金銀財宝のついでに自国に持ち帰った作物の一つでした。 
 トマトはジャガイモやトウモロコシと共にヨーロッパに広がり、アフリカ、果てはアジアにまでもたらされて行ったのです。

 こうした経路からして、中国料理におけるトマトの位置付けは、何となく西域を連想させるものがあります。
 では、トマトがその他の食材と一線を画した珍しい特別な存在かと言えば、さに非らず。
 大抵の地方でも、田舎町の食堂でも食べられるトマトを使った料理に、番茄炒蛋(ファンチエチャオダン)というのがあります。トマトと卵の炒め物です。中国全土的に、最もポピュラーなメニューの一つなのです。

 トマトは中国語で「西紅柿」「番茄」などと書きます。
 「西」や「番」(番は、外国、他民族のという意)という字面からも、トマトが異国渡りの品だと解るでしょう。
 言わばシルクロードの香り、ですかね。
 ・・・なんてロマンを掻き立てるのも、トマトの旨味や歴史を知った、今でこその話。

 輪切りトマトの砂糖がけに、丸ごとトマト入りの汁麺。
 トマトに砂糖、の食べ方は前述の通り、日本でも以前からあったそうですが、そう言えば汁麺にトマト、というメニューも、最近どこぞのラーメン屋のメニューで見かけたのを思い出しました。

 私は未だにあの時の衝撃を忘れられずにいるというのに、正に隔世の感ありき。

 初めて接する異国の社会体制や国旗よろしく、鮮烈にして強烈な赤色に、驚きと刺激を受けっぱなしの、昔話でした。

                                     
 ・・・以下続く
(2005.7.30)











第四回 トマト 1

  豪華な料理だった、ということ以外、実は初訪中の際供された料理の詳細なメニューを覚えていない私です。
 
 何せ1985年という、大分以前の話ですし、遺されている写真を見ても、円卓の上には食べ盛りの子供達が平らげて空に近い状態の皿が写っているばかりで(笑)、推測するのも難しい状態。

 それでも、色のせいか鮮明に憶えている料理があります。

 いずれもトマトを使ったものですが、輪切りにしたトマトの上に砂糖をまぶした冷菜が、一品目。
 
 後々聞けば、地域的なものか日本にもトマトに砂糖をかけて食べる習慣はあるそうですが、野菜には塩、せいぜいがマヨネーズ、と思っていた子供には、衝撃的な食べ方だったのです。
 
 それは当時、トマトの生食があまり好きでなかった私には、余計に信じられないシロモノに映りました。
 
 しかし。長じて多少は野菜の旨味云々というのが解るようになると、あの頃中国で栽培されていた野菜は、殆どが無農薬な野趣に富んだ「贅沢品」だったのでは、と思うようにもなりました。敬遠して食べてみなかったのは、少し惜しかったかも知れません。

 もう一品は麺料理なのですが、汁麺に丸ごとトマトがプカプカと浮いたもの。
 生のトマトが駄目なら火を通してあればいいのか、という話になりますが、その頃私が認識していたトマトの加熱調理品言えば、スパゲティのソースのようにピューレ状になったものや、ピザやグラタンなどに薄切りのを載せてグリルしたもの位。
 
 つまり、同じ火を通したものでも、形状が判らないものか、それに近いトマト、だったのです。
 それだのに、汁物に丸のまんま浮かべるなんて!ひえー!信じられん!!

 夏の暑い盛りに、トマトの赤が余計暑苦しく、忌々しく映る。
 大袈裟なようですが、この時は一寸日本に帰りたくなりました。
                                     
 ・・・以下続く
(2005.7.20)




第三回 宴会料理 1

 初めての中国(海外)で驚いたことは数あれど、高校生の子供に対してですら、当時としては精一杯の歓迎ともてなしを受けたのだなあ、とは後になって、少しは中国の事情が解るようになってからのことでした。

 まず食事は、円卓を囲んでの豪華なものばかり。
 平均的な育ち方をした、少なくともバブル期以前の日本人の子供が認識していた中国料理なんて知れたもの。
 せいぜいが炒飯や餃子などの、日本化していた家庭料理の類だったでしょう。

 そんな子供に、前菜に始まり、鶏を丸ごとから揚げにしたのやら、魚の姿煮が並ぶ、種類も量も半端でないコース料理を供してくれた所からして、中国サイドの力の入れ様が窺い知れるというものです。

 これも後で知ったことですが、食べるという行為に対して、中国人はおよそ含蓄のある民族。
 何せ挨拶代わりに「食事はしましたか?」の言葉が出て来るお国柄です。
 
 こうしたことからも解るように、中国人の付き合いに食事は欠かせないもの。共に食事をすることでビジネスの話を進めたり、友好を深める。

 有効かつ自然な交際術として、単に団欒やもてなす、という意味に止まらないニュアンスを含んでいるのです。

 当然ながら高校生当時、そんな知恵も何も無かった私は、米飯が最後に出て来るのが、大そう不思議でなりませんでした。
 酒を酌み交わしながら料理をつつき、最後に主食で〆る、大人の食事とは違います。
 実際その形式で料理が出されていた訳ですが、濃厚な味付けのものばかり口にしていれば、いくら美味しくとも米飯が欲しい。

 少量のおかずで米飯を主に食すのが、元来の日本人的な食事の仕方だと聞いたことがあります。だとすると、私にもシッカリ日本人のDNAが組み込まれているのでしょうか。

 「この料理、米飯と一緒に食べたかったな。」
 毎回必ず米飯が出るのかどうか分からないし、それを待っていて他の子にお菜を取られて結局味わえないのも癪に障ります。出される順にドンドン詰め込んで膨れ上がったお腹をさすりながら、小さな後悔を繰り返していました。

 でも、宴会料理のスタイルなど識らなかった子供としては、仕方が無かったよね、と苦笑出来る思い出ではあります。
                                     
 ・・・以下続く
(2005.7.8)




第二回 初渡航

  カルチャー・ショック、という単語は最近耳にしないので、ひょっとして既にチト旧い言葉の部類に入るのでしょうか。

 今や小学生ですらパソコンを駆使する時代ですから、情報も氾濫して「ショック」や新鮮さを感じる機会が少なくなったような気がします。
 寧ろそのせいで、別の問題が派生するという矛盾を抱えているのが、現代日本の姿かも知れませんが・・・・・。
 
 あらゆる情報を選択、処理、理解する能力が問われるようになって益々、何かを感じること、その感覚を磨くことが、より大切になるのではないか、と自戒の意味を含めてそう思います。

 これ迄の自分にとって、最大級のカルチャー・ショックと言えば、やはり初めての海外、中国で見聞した物事でしょう。

 聞きしに勝る自転車の洪水。ドア無しや、あっても立ち上がると半身分の高さしかないトイレ。男性の、短パン長ソックス&サンダルのいで立ち(夏だから?)。
 
 etc.etc.・・・・・

 どれもこれも、これ迄見たことがなかったものばかりで、大した驚きだったと記憶しています。

 私が初めて中国を訪れたのは1985年。
 東京都が北京市と姉妹都市な関係で、毎年船一隻に都内の高校生を乗せて訪問する「東京都青少年洋上セミナー」の団員として、初めて中国の地を踏んだのでした。

 ・・・しかし、当時、恐らく他の多くの参加者と同じく、私も特に中国へ行きたーい!という思い入れはありませんでした。
 それどころか、中国から連想するものときたら、TVや映画で観た西太后だの、文化大革命だのの、歴史的・時間的関係を一切無視した、恐ろしげな絵が浮かんでくるテイタラク。
 
 どちらかと言えば、ドロドロした、何となく得体の知れない怖い国?、位にしかイメージもありませんでした。

 日中友好を育みましょう、のねらいで始められた事業にも関わらず、こちらとしてはただ単に「安く外国へ行ける!」という、誠に不謹慎な考えで団員に応募し、幸運にも抽選に当たり、審査を経て海を渡ったことを、ここに白状しましょう。

 それはさておき、中国への渡航が未だ珍しかった時代。特殊な身分で渡航したこともあり、国内事情や旅行ビジネスも発達して変化が著しい現在では全く同じ体験が出来ないだろうことも多く、今思えば初めての中国訪問は、貴重な「ショック」だった訳です。
                                     
 ・・・以下続く
(2005.6.30)




第一回 プロローグ

 ワタクシ、初めての海外渡航先が中国ならば、大学も中国文学科へ進学。

 大学在学中には短期留学、その後幸運にも公費留学生として北京大学に2年在籍。
 
 大学卒業後、バブル崩壊のあおりを喰らいながら何とか就職した先は、これ又中国関係の会社。

 そんな私の経歴を知る方からは「余程中国が好きなんですね」という言葉を頂くことが多いのですが、本人にしてみれば一寸違うんだよなー、という感覚です。
  
 どちらかと言えば、大した努力もせず、偶然とくされ縁でズルズルと中国関係の半生を歩んで来てしまった、という方が近いのでは、と。

 そんな私ですが、付き合いだけは長い中国なので何か他人様にお話し出来ることもあろうか、と思い切って筆を執って(=キーを叩いて)みました。

 本稿では、現在の自分に果たして役立っているのかないのか、中国での体験談を交えて、新旧様々な「中国話」が出来れば、と思っています。

 なお表現上の問題ですが「中国」というのはここでは「中華人民共和国」(いわゆる「大陸」)、「中国人」は「現地の人」として、予め断りがある以外、特に民族の別を問わないこととします。
  
 文中に時折中国語にカタカナで音を付記している箇所があります。個人的に、言葉は正確な音を口頭で発して初めて・・・、と思わなくもありませんし、カタカナの表記自体限界はありましょう。そこで、頻発を避け、音を付記することでその場の雰囲気が出ると思われる場合に、敢えて用いるようにしました。

 その場合、例えば「飲茶(ヤムチャ)」等、広東語(方言)ながら既に日本に定着している音などを除き、原則標準語の音にて表記しています。

 広大な国のこととて同じモノを指す単語でも、ここではこう言う、そこではどうだ、の違いはあると思われます。その点を含み、多大なるご教示を賜れば幸いに思う次第です。

                                     
 ・・・以下続く

(2005.6.24)


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