|
|
かずよさんの『中国今昔玉手箱』
改革開放政策という社会の変化に伴い、既に撤廃して現在では見られなくなってしまったモノが、中国には幾つかあります。 その一つに、糧票(リャンピャオ)が挙げられます。 票は「切符」、糧は「穀類」の意味ですから糧票は「食糧切符」のこと。同様に油票、卵票、肉票などがありました。 これらは1950年代から始まった配給制度に基づくもので、生産、販売量を国が統制していた食料を市民が購入する為に必要でした。 食料だけでなく日用品、例えば布地にも配給切符があったという話を聞いたことがあります。切符やカードを割り当てることで、供給量が決められていたのです。 その後、1978年から開始された、農村経済改革による家庭生産量請け負い責任制実施、人民公社の解体などで、こうした制度も徐々に緩和されるようになりました。 因みに穀類、食用油に関しては、1993年に販売が自由化され、同時に糧票も完全に姿を消しています。 私が北京大学に在籍していた1990年代初頭は、まだ一部ですが糧票が幅を利かせていました。場合によっては割高価格で売ってくれることもありましたが、糧票が無ければ駄目!の一徹で通されたこともありました。 そのような場合、概ね諦めのいい私は、販売員も規則でそう言っているのだろうし、売ってくれないならじゃあいいや、と聞き分け良く他所の店に行くか、その日は別のものを買うことにするか、という態度。 中国人にクチバシで勝てる訳が無い、と妙に悟っていた私でしたが、中には喧嘩腰で品物を強引に購入したり、中国人の知り合いに糧票を譲ってもらい、それを使用している留学生もいたようです。 ・・・以下続く (2006.6.6)
第二十九回 代用食品 代用食品、などというコトバは戦争中でもあるまいし、今の日本では(否、中国でも)もはや死語に近いかも知れません。 中国の、少なくとも都会では外資系大型スーパーやデパートの存在は、現在では当たり前のように人びとの生活に身近なもの。日用品でも食料品でも何でも、無いモノは殆ど無いくらい。却って中国の友人や、現地に駐在している日本人へのお土産探しに苦労する程です。 90年代初めの北京でも、既に外資系スーパーが進出していて、主だった輸入食材の入手は可能になっていました。 けれどもそれらは、留学生にすれば概ね高価な品でした。 大抵の留学生は、お財布と相談しながら時には奮発したり、どうしても手に入らない物があれば、代用品で調達するなどしていました。 イタリア人留学生は、ピッツァが食べたくなるとリッチにやる時には高級ホテルのイタリア料理店などに繰り出していましたが、通常は回教徒の人が食する、お盆のような形のパンを、ピッツァ生地の代用としていました。 彼らは代用の生地にトマトの薄切りと、国から持って来たのか一抱えもある、大きな大きなチーズの塊から大切に少しずつ削ったチーズを載せたピッツァで、郷愁を感じたりしていたのでしょうか。 私も、代用食品ではありませんが、食べ遺したパンをガリガリに乾燥させ、おろし金ですってパン粉にするなど、日本でもやらないことを、マメマメしくやっていました。 乾燥がちな気候を利用して、切干大根なども作っていました。面倒なことではなく、洗濯ロープに箱を吊るして、そこに並べておけば自然に出来上がり。手間も要らず、味噌汁や煮物の具に活用していました。 無いなりにも工夫する生活。それを寧ろ、面白がるセンスを磨く。これも又、異文化に身を置く楽しみと言いますか、意義の一つかと思います。 でも、そんなことは不自由な状態になってみなければ、やはり理解は難しいかな? ・・・以下続く (2006.5.14)
第二十八回 留学生の食事情 2 残念ながら私は機会が無く、中国人学生寮に出入りをしたことはないのですが、2~6人部屋(学部生や院生の別で、形式が違うようです)では、プライベートなスペースも限られ、寮内での煮炊きも禁止されていると聞いたことがあります。 北京大学の留学生寮には一応、調理用とされている小部屋がありました。一応、とは、簡単な作業台と、コンセントの差込み、小さな洗い場があるだけの部屋だったからです。 ガス台はもとより、他の調理設備も皆無なのは、防災上の理由からか自炊を歓迎しない大学側の姿勢が伺えます。 それでも、宗教的な理由で自炊をせざるを得ない学生もいるので、完全に禁止するのは難しい実情と思われます。一応、の調理部屋が最大限の譲歩として存在するのでは、と推測しています。 従って、自炊は言わば留学生が勝手にやっていることになりますが、留学期間が長い程、自炊の率は高いようです。冷蔵庫やトースターなど、家電品を多く所持しているのも、長期滞在者の特徴と言えるでしょう。 調理部屋で調理する際は、設備に関しては前述のような事情の為、自分で必要な器具を持参して行います。 食事時にもなると、調理の順番を待つ留学生で井戸端ならぬ、炊事場会議になるのです。これも又自炊の楽しさ。 調理部屋でも自室で調理するにしても、火力は電気コンロのみ。コンロは、小学生があぶり出しに使う、アレだと思って頂ければ宜しい。 しかし当時、コンロは作りがしっかりしていなかった為、料理が中断させられることも日常茶飯事。調理中に突如電気線が焼き切れてしまい、慌てて隣人が使っていたコンロに鍋を移させてもらうことも、珍しくはありませんでした。 故障もしょっちゅう、火力調整も出来ないコンロなのに、トンカツや天ぷら、カレーに味噌汁、お好み焼き、煮物・・・、と我ながら結構器用に作っていました。 でも、自分がそこまでやったのは電気コンロだったからかも知れません。 知人を訪ねに北京師範大学へお邪魔した際、寮の廊下にガスボンベが据えられ、そこで料理をしているのを見たことがあります。もし、熱源がガスボンベだったら、過失で爆発でもしたら怖い(!?)ので、果たして自炊したかどうか判りません。 とにもかくにも、環境次第で生活形態に随分と影響を受けるのは、確かなようで・・・。 ・・・以下続く (2006.4.24)
第二十七回 留学生の食事情 1 恐らく多くの留学生が、安価な食事が提供される学生食堂を利用しているでしょうが、北京大学構内では、他にも数軒のレストランが開業しています。 どういう利権システムで運営されているのかよく判りませんが、90年代初めで既に日本料理屋、焼肉屋、しゃぶしゃぶ屋などがありました。 これらは街のレストランと同様の利用方法で、職員の小宴会や、中国語の家庭教師をお願いしている中国人学生に、ねぎらいの宴を張っている留学生の姿、学生食堂の食事に飽きてしまった学生なども見受けられたものです。 大学周辺にも手頃な料理屋はあるので、たまには外食を、という日もあります。私個人としては、食生活に不自由を感じることはありませんでした。 北京大学の留学生用食堂は、留学生寮の裏に付設されています。私が滞在していた頃は、中国人学生の利用は原則不可でしたが、現在はどうなのでしょう。 中の構造は、食堂内の一部を仕切り、一方は服務員が注文を取りに来て、宴会も出来るような点菜部(ディエンツァイブ・「点菜」は料理を注文するという意)で、もう一方は中国人学生食堂のように窓口で自分が食べたい物を選びます。前者は現金払いで、後者は食券制となっていました。 中国人学生食堂と異なり、見本があらかじめ窓口に並べられているので、名称が分からない場合も、指して注文すれば済みます。 メニューは中国料理から西洋料理まで、守備範囲が広いのはさすがです。ただ、あくまで「中国式」西洋料理なのは致し方ありませんが・・・。 料理は皿に盛って供されるので、マイ食器持参の必要は特にありませんが、食堂で食事をせず、自炊派が、米飯だけ買いに器持参で現れることもあります。 学生食堂は、食べるだけでなく様々な情報交換の場なので、それなりに利用価値のある場です。が、私も留学2年目以降、学食へ足を運ぶ頻度は減り、自分で料理して自室で食べる、自炊派に転じるようになりました。 ・・・以下続く (2006.3.10)
第二十六回 煎餅 このタイトル、「せんべい」と読むか否か。 ここでは中国語で「ジェンビン」と読んで頂きたい。 字は同じでも、中国のそれは小麦粉を溶いて薄く焼いた生地の中に辛味噌、卵、葱、香菜、油でパリパリに揚げた油餅(ヨウビン)などを折りこんだ食べ物。中国風クレープ、と説明している料理本もあります。 北京大学に留学していた後半期の毎週月曜日は「按摩の日」と決まっていました。学生の分際で何がアンマだ、と思われるかも知れませんが、当時重度の腱鞘炎にかかり、その治療に通っていたものです。 治療を終えた帰りにバスに乗る所を2駅分ほど歩き、人民大学周辺の屋台で煎餅・ジェンビンを買ってパクつきながら露店を冷やかし、乗り合いバスを拾って大学へ戻る、というのが週課となっていました。 このように煎餅は私にとって「按摩の日」を締めくくる食べ物だったのです。 意外に思われるかも知れませんが、外で売っている食べ物を何でもかんでも試しに買って食べてみるということをあまりしない私としては、煎餅は珍しい存在。 そんなこともあり、北京時代から9年の時を経て北京を再訪した時も、やはり食べたいものに、煎餅は挙がっていました。 けれども周囲からの情報によると、煎餅の屋台は、最近あまり見かけなくなった、という声もあり、心配しておりました。 街がキレイになり過ぎて、昔ながらの屋台文化も淘汰されてしまったのでは、と危惧しておりましたので、再訪の折も以前と同じスタイルの煎餅屋台を見付けた時は、本当に嬉しかったです。 自転車の荷台の上に、簡単にガラス張りのブースで囲った小さな空間。そこで焼かれる煎餅は、生地のモチモチ感と、油餅のパリパリ感、辛味噌と香菜と葱の香りを卵で包み込んだ味のハーモ二ィとが混ざり合って、中国式ファーストフード万歳!なのです。 日本の焼きイモ屋と同じく、夏は暑さのせいか、煎餅の屋台はどうやらお休みが多いようですが、2005年の冬にニューバージョンの煎餅屋台を発見しました。 ピザ屋(因みに北京では必勝客・ピザハットが1992年には既に進出していました)にヒントを得たのか、トッピングを選べる煎餅屋台が、そこにはありました。 屋台を営んでいるのは若いカップル。若者への受けを狙ってなのか、アイデアで勝負、の新しい屋台もツイほほ笑ましく眺めてしまう私なのでした。 ・・・以下続く (2006.3.10)
(2006.3.1)
・・・以下続く。
・・・又「玉手箱」でお会いしましょう!
|