中国今昔玉手箱-江南春琴行

かずよさんの『中国今昔玉手箱』

【第四十一回-第五十回】
★特集  歌舞音曲紀行★



第五十回 老舎故居 2





 元々クチで勝てる訳がなく、そういう意味で中国人に対して闘争心を抱くことなく、つまり諦めの良い私に対してこのオジサン。既に不足分のパンフレットを得る気が失せている心を知らないのか、何とのたまうことに「駄目だダメだ、田中角栄だって、駄目なんだ!」ですと。

 パンフレット云々よりも、本当はこの台詞を披露(?)したかっただけかも知れないけれど、あまりの唐突な台詞に吹き出してしまいました。しかし、タナカカクエイねえ・・・。

 もっと若い世代とか、中国現代史に疎い人が聞いたら、下手をすると解ってもらえないのでは、と余計な心配までしてしまいました。
 このように、最初はシックリしない我々でしたが、私が館内で販売していた老舎関連本を購入した辺りから、急に友好的になってきました。

 人並み以上に声のデカかった管理人氏。私に同行していた中国の友人を日本人、日本人の私たちを中国人と勘違いしたり、簡単な解説をしてやろう、と非常に詳しく説明してくれたり。終いには普段公開しない家の裏まで私たちに開放するなどして、なかなか面白いオジサンでした。

 さて、この後のことですが、ちょっと珍しい写真が撮れました。見学を終え、同行者に先んじて門の外へ出た私は、記念館の奥に続いている胡同の様子が中々良い雰囲気だったので、自然シャッターを押していました。
 後で聞くと、この胡同の奥の方には、いわゆる「六四」で失脚、蟄居していた趙紫陽氏の屋敷があったのだそうです。
 老舎故居を訪れたのは、氏が存命中の時分でしたから、恐らくは政治的な理由でしょう、周囲は原則撮影禁止だったようです。故意ではなかったし、他人に見付からなかったのでお咎めは無し、でしたが・・・。

 道理であの管理人氏、こちらが辞しているにも関わらず、我々が表通りに出るまでずーっと見送っていたっけ・・。

 中国の古都にして現在でも首都である北京には、活きた歴史やドラマを感じられる場所が、まだまだ数多くあるのです。

                    ・・・以下続く。
                 (2007.12.15)











第四十九回 老舎故居 1



 北京の銀座、とも称される王府井は、今や市内のあらゆる所に大規模なショッピングセンターが建てられようとも、やはり中国随一の繁華街であることに変わりは無いと思います。

 その王府井の程近く、灯市口西街界隈を少し入った胡同に、現代文学作家・老舎の記念館があります。

 一般の日本人には馴染みが少ないでしょうが、老舎は戯曲や映画にもなった『茶館』や『駱駝祥子』の作者であります。
 北京に生まれ、旧き北京を舞台にした、味わい深い作風が代表的な作家ですが、惜しくも文化大革命の初期に紅衛兵の迫害に遭い、謎の死を遂げています。

 市内には彼の生家や、作中モデルとなった建物や道がいくつか現存していて、巡ることが出来ます。
 私はこの老舎を研究テーマとして北京大学に籍を置いていたこともあり、何かの足しになろうかと北京時代には市内のアチコチを、一人で地図を見ながら歩き回ったものです。

 現在記念館となっている家は、老舎が戦後から死に至るまで住んでいた家で、伝統的な四合院(真中の庭を囲むようにして、部屋が配置される北京独特の家屋構造)造り。老舎の死後は未亡人(著名な中国画家)と、その遺族が住んでおられました。近年記念館に模様替えされ、今日に至っています。

 私は1993年に、日本の某大学の先生が老舎の家を訪問されるのに連れて行って頂くことが出来ました。当時は個人宅で非公開でしたから、一留学生だった私はそれ迄、いつも門前を眺めるだけだったので、心弾ませて付いて行ったのを覚えています。

 次に再訪を果たしたのは、9年後、記念館としてすっかりリニューアルした後のことでした。

 私と日中の友人計3名で入館したのですが、管理人のオジサンは、なぜか入場券2枚に、パンフレット1枚しか渡して呉れませんでした。
 「パンフレットをもう一枚頂戴」と言いましたら、意地悪なのか、在庫が無かったのか不明ですが、駄目だと言うのです。
 「いいじゃん、ケチ」と私が日本語でボヤいたのは、言うまでもありません。中国のこういう所は、本当に訳が分からん也。

                               
 ・・・以下続く
(2007.10.25)











第四十八回 月餅 



 先日、夏休みに中国へ行って来た会社の子が、北京のスターバックスで売っていた月餅を持って来てくれました。彼女は1コを小さく切って皆に分けていました。
 月餅は案外高カロリーな食べ物なので、少しだけでも結構ずっしっと来ます。ですから味見程度でしたら、小さい一切れで充分な私です。

 このスターバックスの月餅。直径5センチ位の、そんなに大きくないサイズで1コが25元、約400円也。

 日本だとどこそこのシェフによる何とかカンとか、と薀蓄を付けて売っても違和感の無い値段でしょうが、中国でこの価格、となるとツイ私などはイキリ立ってしまいます。が、勿論それは額面の「25」という数字そのものに対して高い!という昔の感覚が、無意識に引き出されてしまうだけのことであります。

 月餅としての値段は他所でも大体似たようなもので、直径8センチ位、厚さ約3センチのもので50元、60元平均ですから、このスターバックス製品が高過ぎるお値段、という訳ではないと思います。

 来日する中国人が驚くことの一つに、日本の中華街で一年中月餅が売られていること、というのがあるそうです。
 中国の月餅は、9月に入るとイキナリ店頭に姿を現し、中秋節を終えるといつの間にかスーッと姿を消してしまう食べ物。
 中秋を愛でる頃に、月餅を贈り合うことで、収穫を祝ったり、お互いの関係をことほぐ習慣から生まれた「行事食」ですが、比ぶるに現在日本人の季節感は、どんどん薄れて来ているのではないでしょうか。食べる物一つにしても、その由来や意味を考える機会を、もっと持ちたいものです。

 とは言え、月餅に関して言えば、中国人も贅沢になったのか、取引先に贈ってもあまり喜ばれなくなった、と駐在員の知人が話して呉れました。
 高カロリー、と前述しましたが、昨今の健康ブームを反映してか「低糖」とか「緑色」(健康食品の意)と云ったフレーズ入りの月餅が目立つようにもなった、とのことです。
 一方で、アワビ入りだのフカヒレ入り、金華ハム入りの豪華版月餅も販売されていているようです。贈答用として見栄坊さん(?)の要求を満たすものでしょうか。
 若い人向けなのか、餡がブルーベリー&チーズとか、マンゴー&チーズとか、洋菓子風にアレンジしたものも出始めていて、色々食べてみるのも面白そうです。

 いずれにせよ、私が暮らしていた10数年前に比べると、中国のグルメ度合いも格段に進んでいることが、月餅一つからも、よく解ります。

                               
 ・・・以下続く
(2007.9.24)















第四十七回 トイレ2




 中国では、近代建築のマンションと異なり、旧式の家屋を利用した住宅には、基本的にバス・トイレが付いていないのが普通です。
 では、その場合はどうするのか。これは私も、長いこと疑問に思っていた点でした。なかなか人には聞けないことですから、ここでお話することも自分の見聞きした限りにおいて、なのですが・・・。

 バス(お風呂)については別の機会にお話しするとして、トイレに関しては、路上にある公衆トイレで済ませます。
 こうしたトイレは、民家が多い路地などを歩けば、しょっちゅう見ることが出来ます。公衆トイレは、ドア無しは当たり前、下手をすると仕切りも無し。中は大概真っ暗で、夜は怖そう。
 実際治安上のこともあり、夜間は自宅でオマルを使用するようです。江南の水郷地帯などを旅すると、朝に住民が川でオマルを洗っている光景を見ることがあります。

 個人的な感情としては、路上の公衆トイレは暗いし陰気な感じがして、昼間でもそう長居はしたくない雰囲気。
 しかし、定期的にか水がドーッと流され、溜まっている汚物を一斉に排出されるのを目撃したこともありますし、思ったほど不衛生でないのが、せめてもの救いです・・・。

 そうは言っても、私たちのような旅行者や留学生が街歩きをする際は、無理をせずに都会ならば点在するホテルのトイレを拝借するのが、当然ながら上策。

 今は全面的に改築されたので無くなってしまったでしょうが、北京飯店新館1Fのトイレは、好印象の一つとして私の記憶に残っています。
 豪華な装飾も無く、照明も薄暗いのですが、ドアは上まであるし、いつもお香が焚かれていて、清潔でシンプルに上品。中国式の上着にズボン、布靴姿の太ったオバチャン服務員が、手を洗う時には蛇口の栓をひねってくれました。
 個室に備えられている紙が、メモ紙になるほどシッカリした厚みなのもご愛嬌。チップもせびられないし、如何にも旧き良き?「人民中国」らしさが感じられたのでした。
 実際トイレに対して何ともおかしな話ですが、私にはなぜか忘れられない、好きな空間でした。

 トイレこぼれ話としてもう少し。
 最近でも「WC」の表記を「Toilet」に改めるなど、色々やっているようですが、北京では2004年から観光地等のトイレに、星で格付けをするようになりました。
 2008年のオリンピックを意識してか、文化的な都市造りを目指す一環だと思われますが、現在も実施中かどうか?
 因みに、かつて皇帝たちが暮らしていた故宮博物院内のトイレは、四ツ星でした。


                               
 ・・・以下続く
(2007.8.14)













第四十六回 トイレ1



 
 以前ほどではなくなりましたが、今でもたまに聞かれることがあります。
 「中国って、トイレが凄いのでしょう?」
 確かにインパクトがある対象ではありますが、本当にこのテの話って、何と盛り上がるのでしょうか。

 私自身、個室の扉が胸の高さ程しか無かったり、囲いどころか、溝(!)だけなので自分で命名した「ニーメンハオ(こんにちは)トイレ」をはじめ、数々の洗礼(?)を受けて来ました・・・。

 旅先では「青空トイレ」も当たり前。有名観光地ならともかく、特に農村など地方での旅は、コレが我慢出来ないとなると、中国の自由旅行もなかなかキツイかな、と思います。

 雲南省の田舎で、畑の片隅にムシロで簡単に囲いがしてあり、中に入ると丸太棒が渡してあってソコで、というのもありました。ちょっとでも足を滑らせたら一巻の終わり。再起不能(!)に陥らぬよう、緊張して足も踏ん張らねばなりません。

 汽車のトイレがペダルを踏むと便器の底がバッと開いてブツが線路に直下、というのは日本でも何十年か前はそうだったようですが・・・。
 その為だからか、中国では駅に停車している間は、車掌さんが鍵をかけて、使えないようにしていました。

 日本では観光地などのトイレで女性用が長蛇の列を成している時、皆でやれば怖くない、とばかりに男性用に駆け込む方がいらっしゃいます。しかし、中国でそれは絶対に厳禁。
 倫理観の違いなのか、以前中国でそうして管理人にひどく怒られている日本人観光客を見たことがあります。

 何でも自国でのやり方が正しいと勘違いしては、恥をかきますね。


                               
 ・・・以下続く
(2007.7.16)





第四十五回 歌舞音曲紀行・Peking☆violin





 中国初渡航から数えて丁度20年目の夏、偶然にも勤務している会社から、中国研修を言い渡されました。

 夏の中国は、本当に久し振り。ついでに長期滞在も久し振りで、半分は仕事でしたが、個人的には記念の年に、良い機会に恵まれたことになります。

 しかし、やはり一応公用での渡航ですから、そう自由に振舞うことは出来ません。
 と言いますか、中国人はもてなすのが上手なので、招いた客への心配りも素晴らしく、上げ膳据え膳。我々を不自由、退屈をさせないよう日曜日も返上して、受け入れ先の公司からは人が出て来て、私たちを色々案内して下さったのでした。

 そんな中で訪れた、北京の鼓楼。
 名前の通り、かつては時を告げる為に大きな太鼓が打ち鳴らされた施設で、現在は昔の太鼓の展示や、観光用に太鼓ショウが行われています。
 又、楼上から一望出来る北京市街の眺めも、この楼を登る人にはご馳走です。

 時間に間に合って太鼓ショウを鑑賞した後ベランに出ると、子供が一人でヴァイオリンを弾いていました。
 太鼓の後にヴァイオリン、という突然の組み合わせを不思議に思っていると、子供のお母さんがやって来ました。子供は、太鼓ショウに出演している奏者のお子さんだったのです。
 日曜日なのに両親共仕事で家に居ないので、一人で留守番をさせるよりは、と母親の職場に連れて来ていたようです。

 どうしてこんな所でヴァイオリンを弾いているのか、と聞きましたら、翌週にヴァイオリンの進級テストを控えているので、とのこと。練習をサボらないよう、監視の意味を含んでいたかも知れません。親の職場に子供を連れて来たり、しかも「鳴り物」持参なんて、日本ではなかなか出来ないことですし、中国の教育熱が伺える場面ではありました。

 次の太鼓ショウまでの時間を利用して、今度は母親がヴァイオリンを手に取りました。一休みの子供に代わり、進級テストの課題曲を母親がおさらいしているのです。

 ちょっと印象的な、夏の午後でした。


                              
・・・又『玉手箱』でお会いしましょう!!

(2004.6.18)














第四十四回 歌舞音曲紀行・メキシコ篇






 アメリカ西海岸に初めて行くことを決めた時、日帰りでメキシコにも行く、というコースに惹かれました。
 もう一つ余分に国を渡れて、何だか得したカンジ。

 朝に車でロサンゼルスを出発して、昼前にはメキシコ国境に到着。以前、日本との往復時間を含めて10日間でヨーロッパ5カ国を廻るという「荒行」をしたこともあります
 が、今回のように徒歩での国境越えというのは、そうありません。
 と言っても、映画やドラマなどで観る、例えば旧東西ドイツのような厳しさは無く、カウンターでパスポートを提示した後、開店扉型のゲートを一人ずつくぐるだけ。

 違法者も無くはないようですが、アメリカからメキシコの町へ毎日通勤している人も多いので、ここでの国境越えは、そう特別なことではないのでしょう。
 しかも、国境という特別な区域(という感覚が、少なくとも私にはあります)では当然撮影厳禁かと思いきや、アメリカ側からは撮影禁止が、メキシコ側からならばOK。
 それどころか、メキシコ側に入ってすぐの所に、あたかも撮影用にと赤、白、緑のメキシコ国境カラーで彩色された「MEXICO」の文字が建物の壁面を飾っていて、確か に自分を含む観光客が順番で記念写真を撮っていました。

 さて、そうやって入国したメキシコは、ツイ先程まで居たアメリカと雰囲気がガラリと変わって、ラテンなムードが漂っています。
 何がそんなに違うのか。日本人も比較的近親感を抱く顔付き、体型の人たち。目抜き通りに建ち並ぶ、スペイン風の建物・・・。何となく音符マーク♪が似合う陽気さが感じられます。

 昼食のレストランで、マリンバの演奏を聞かせて貰いました。
 シンプルな奏法が多い打楽器ですが、マリンバも例に漏れず。音板をたたけば演奏が可能です。
 ただ、他の打楽器に比べるとオクターブ数も多いし、マレットと呼ばれるバチを片手で複数持てば、旋律と和音を同時に奏でられるという、複雑な表現も出来るのです。

 アフリカで発祥し、奴隷と共に渡った南米と、米国で改良が加えられたマリンバは、現在メキシコのお隣、グアテマラが本場とされています。
 暑く乾いた空気に、木製楽器の温かい音がよくマッチしていました。

 短い滞在でしたが、次回はユックリと訪れたいメキシコでした。


                              
・・・次はPeking☆violin!
(2004.4.2)
















第四十三回 歌舞音曲紀行・ミャンマー篇



 「どっかに行こうよぉー!」と誘われて出掛けた、ミャンマー旅行。
 勿論機会があれば行ったみたい国でしたが、その時は、たまたま手近にパンフレットがあって、値段もマアマアだし、と急遽決めた旅でした。

 夜遅い到着の足で、夕食会場のレストランへ。入店を待ち構えていたかのように、民族舞踊と音楽のショウが始まりました。
 成田-大阪-ヤンゴン、という一日がかりの長旅で少々疲れ気味な頭に、癒し系仏教音楽のようなメロディーが染み込みます。
 タイやカンボジアの音楽に似ているな、と最初に感じたのも、この国も同様に熱心な大乗仏教国家であることと、恐らくは関係が深いでしょう。

 ところで、少なくとも我々日本人にとっては、ミャンマーと云うよりも旧国名・ビルマの方が、より耳に馴染んだ国名かと思います。
 言わずもがな、児童文学の名作にして、映画にもなった『ビルマの竪琴』の影響のためでしょうが、あちらもその辺を熟知しているらしく、ツアーで連れて行かれた土産品店には、竪琴の生演奏コーナーがありました。
 竪琴を奏でる姿をかたどった人形や、ミニチュアなどが売られています。

 この竪琴・ガン・サウンは、ミャンマーの言葉で「曲がった琴」という意味があり、美しい弓形の姿が、そのまま名称になった楽器です。
 黒、赤、金で彩色された装飾性の高さは、古来より宮廷や佛教儀式の場とも深く関わって来た、歴史と伝統を感じさせます。

 ヴァイオリンのように、体格に合わせたサイズ展開があるのか確認しなかったのですが、実際見た限りでは皆、床に置いて座って奏でられていました。
 映画『ビルマの竪琴』では、背中にくくりつけて戦場を移動したり、脇に抱えて立ったまま演奏しているシーンが見られるので、作中水島上等兵が持っていたのは、通常より随分小さなサイズ、ということになります。
 尤も、原作者の竹山道雄さんは、復員した元教え子の話をベースにして作品を執筆。実際に現地で取材していないので、全くの想像で書いている部分も多いとのことです。確かに、水島上等兵が人食い人種部落で生贄にされかかる所などは、それに該当するエピソードかと思われます。
 となると、彼が持っていたのはやはりオリジナルのガン・サウンなのか知らん・・・。

 しかし、作品が想像で書かれたとしても、オリジナルな楽器?でも、作品自体が素晴らしいからこそ、細部のリアリティ云々よりも、世代を越えて、今なお平和を訴える力強さが勝っているのだと思いました。


                               
 ・・・次はメキシコ篇!
(2007.1.30)














第四十二回 歌舞音曲紀行・佐渡篇


 

 6月のある週末、前々から行ってみたいと思っていた佐渡島へ行って来ました。天候に恵まれ、なかなか良い旅でした。

 佐渡というと、一時拉致問題でよくメディアによく登場して、何やら恐ろしいトコ?みたいなイメージを抱きがちです。が、昔から配流の地だった歴史的背景からも「何者も受け入れる」という気質が育まれたのでしょう。大らかな温かみも、そして文化もある所でした。

 ラッキーなことに滞在当夜は、ホテル近くの神社で薪能が奉納される、と聞かされました。
 ホテルに入る前に立ち寄った能楽資料館で、コンピュータ制御された立派な電動人形による能楽観賞をしたばかりでしたが、やはり生身の人間には叶うまい。荷物を部屋に置いてすぐ、神社に行ってみました。

 本番まで未だ大分時間があるというのに舞台では、本番さながらにリハーサルが行われていました。会場準備をなさっている方から、少しお話しを伺うことも出来ました。
 聞けば皆さんプロの役者ではない、とのこと。そして若い方の参加も、最近少しずつ見られるようになったそうです。

 トップリと日も暮れ、夜のとばりも下りる頃。道の両脇にぶら下がる提灯の明かりが、舞台へといざないます。
 夜の静けさにかがり火が揺れるという、厳かな雰囲気で『清経』が粛々と演じられました。上演約1時間。月夜の下で毛布にくるまって観賞しているカップルもいました。寒いけれど、なかなか素敵なデートです。

 私は薪能は初めて鑑賞したのですが、能楽堂で観るのと違い、自然と舞台、演者が一体となってファンタスティックな体験でした。能楽本来の姿に、少し触れた思いです。

 佐渡は能が盛んな土地。佐渡の能の起源は、諸説ある中から拾ってみますと、例えば京都から追放された都人や世阿弥が伝えたもの、というのもあります。

 観賞中、いよいよクライマックスの場面で、私の横に立っていた地元の方が、舞台上の役者に合わせて謡いを口ずさんでおられました。凄い。こういう教養をチラリとでも見せられるのは、とっても素敵。
 地元に根ざした文芸の、層の厚さも感じられました。

 興奮も冷めやらず、舞台の後には、地元テレビ局のインタビューにも調子に乗ってペラペラと応えていた私。
 ひょっとして自分のコメントがテレビに出るかも、もしオンエアーされたなら見たいなぁ、などと、俗なことばかり考えている。
 少しは高尚な世界を覗けたというのに全く・・・、なのでした。
                              
・・・次はミャンマー篇!
(2006.12.25)










第四十一回 歌舞音曲紀行・フジコサン


 
 今更私などが申すまでもなく、長い不遇の時を経て、今や押しも押されぬ人気ピアニスト、フジコ・へミングさん。演奏のテクニックだけでなく、長い旅路にも似たドラマティックな歩みにも、人びとは惹き付けられるのかも知れません。

 服作りをしている私の母は、実はかつて一度だけ、フジコ・へミングさんの衣装を手掛けたことがありました。

 もう25年以上前のことですが、当時母がよく服をお作りしていたお客様のご友人の親戚、にフジコ・へミングさんが当たるのだそうです。
 複雑ながらそういうご縁で、スウェーデンから帰国したばかりのフジコ・へミングさんは母の所へお越しになり、コンサートを控えているので衣装を、とオーダーがあったのでした。

 一度携わった作品や顧客というのは、そう忘れるものでもないらしく、その時お作りしたドレスが白色でトレーンをなびかせたようなシルエットだったことや、彼女の風貌を母はよく憶えていました。又、不思議にもフルネームは忘れていたくせに、周りから「フジコサン」と呼ばれていたことだけ、母は記憶していたのです。

 近年、フジコ・へミングさんがメディアで採り上げられだすようになると、母はあの時の「フジコサン」かしら?と言ってはいたものの、確認することもなく月日が流れて行きました。
 「フジコサン」を連れて来られた方は、その後海外に移住されたこともあり、母はそんなことをワザワザ尋ねるのも、と先延ばしにしていました。
 そんなことで、別の筋からあの時の「フジコサン」は、やはりフジコ・へミングさんのことだと判明したのは、つい最近のことでした。

 是非に、とご本人に請われ「フジコサン」のコンサートへ当時の母は足を運んでいます。
 今やチケットがなかなか取れないアーティストの一人となったフジコ・へミングさんですが、25年も前なら、未だ不遇の時代。思えば母は、なかなかレアな体験をしていることになります。

 余談ながら「フジコサン」の職業がピアニストだと知った母は、彼女に自分の子供(つまり私のこと)に、ピアノとバイオリンのどちらをを習わせたら良いかを、ご相談したのだそうです。
 当然のことながら「フジコサン」からのアドバイスは、ピアノが良いでしょう。かくて私の稽古事は、めでたく(?)ピアノに決まったのでした。

 母にすれば、単にプロの方にちょっと伺ってみようかと思ったのでしょうが、イヤハヤ。
 超有名ピアニストとして名を馳せるのは後のこととしても、シロウトとは畏れを知らぬものです。

 しかし。「フジコサン」ほどの、とは言わずとも、ちょっと面白いエピソードやドラマというものは、案外どこにでも転がっているのかも知れません。

                               
 ・・・次は佐渡篇!
(2006.12.25)