かずよさんの『中国今昔玉手箱』
第八十回 コーヒー2 自動販売機のコーヒー、ではなく、普段運転手氏が自分で飲むのに使っているであろう容器に入ったコーヒーを渡された私は、一体どうしたら良いのか?? 「イヤ、それは貴方の分だから悪いし・・・」とか何とか言って、丁重にお断りしました。 だって、ホントに悪いもの。 しかし彼は、お構いなしに「まぁ、いいから飲みなさい」と、無理矢理に瓶を私に押し付けるのです。さぁ困った。 恐る恐る蓋を開けると、コーヒーの良い香りが漂ってきました。しかし、ちょっと待った。 これって、もしかしたら眠り薬でも入っていて、ひょっとしたら何処かへ売り飛ばされちゃうかも、なんて・・・。 当時、似たような噂話が、場所を替え品を替えて流布していました。 ・・・という訳で、コーヒーは一口飲んだフリだけして、お返ししました。「美味しかったワ」とか何とか誉めちゃったりして。 何でも無ければそこまでですが、万一何かあったら日本に帰れない。言葉も判らないし・・・、と真面目にして涙ぐましい一幕でした。 かくて、実際には何事も起こらず、タクシーは無事に学校の宿舎に到着したのでした。 恐らく運転手氏は、悪事を働こうというのではなく、単なる好意で、当時としては大変にオシャレな飲み物であったコーヒーを、私にご馳走しようとしてくれたのでしょう。 コーヒー豆を挽いてお客様に出す喫茶店すら、まともに無かった頃ですから、当然あの瓶の中にはインスタントコーヒーが入っていたと思います。 不思議なことに、今でもその時の情景が、香り付きでハッキリと記憶に残っているのでした。 今から思えばこの初タクシー単独乗車は、中国において自分一人だけで物事を切り抜けた、最初の経験となったのでした。 ・・・以下続く。 (2012.1.4) 第七十九回 コーヒー1 思えばあれは、中国で初めて一人でタクシーを利用した時のことでした。 1989年、短期留学していた、春先の北京でした。 それ迄は、同じく日本から留学して来ていたクラスメートたちとの団体行動ばかりでしたが、この時は何故か誰も都合が付かず、帰国も迫っていたので時間の短縮になれば、とタクシーに乗り込んだのでした。 タクシーは、当時は流しではなく、大きなホテルの前等で乗車するものでした。 料金も、メーター制だったり、交渉制だったり。料金のことで、よくモメているのを見かけたものです。 そんなこともあり、更に私の場合は言葉の問題もあり、で日本でも滅多に利用したことのないタクシーには、かなり緊張して乗車しました。 それなりの距離を走り、途中買い物の間は待っていて貰って、・・・と割と長時間の利用だったので、若い運転手氏も走行中、気を遣って色々話し掛けてきます。 その内、彼が私に尋ねてきました。 「コーヒーは飲みますか?」 この質問文だと、習慣としてコーヒーを飲むか、それとも、今飲むのか、判りませんね? 私は一応前者と解釈して「飲みますよ」と答えました。 すると彼は、おもむろに、運転席の横に置いていた大きな瓶に入った熱い物を私にホレ、と差し出したのでした。 要は、私にこの瓶に入っているコーヒーを飲みなさい、ということです。 まさかの展開に、ちょっと驚き。 ・・・以下続く。 (2011.12.12) 第七十八回 開水 中国語を勉強しておられる方なら「湯」は、日本語と中国語とでは意味が異なるのはご存知ですよね? 飲用の湯は、中国語では「開水(カイシュイ)」と云います。 中国では水分の補給に、湯(開水)が欠かせません。 水分をよく摂取することを良しとする中国人は、マイカップ、マイポットは当たり前。 インスタントコーヒーの大きな空き瓶を利用した容器は、その両者の用途を満たすものとして、今でもよく見かけます。 瓶は、茶葉にお湯を注いだものを携行しています。可愛らしい手編みの瓶カバーに入れている人もいますが、そのままの姿で持ち歩くのが大半。 今でこそ、ペットボトル飲料が普及して水分摂取のシーンにも変化が見られはしたものの、まだまだ国内のアチコチでは、給湯器がちゃーんと、設備としての地位を確保しています。 職場で、学校の廊下で、サービスエリアで、駅で、空港で・・・。 お湯はおよそどこでも手に入るらしく、外出先でもお湯が無くなると、お湯を足しては皆一日中、グビグビやっています。 勿論、北京大学の寮にも、給湯器が設置されています。 大学の授業でも、お茶の入った瓶を持って教壇に上がる先生がおられました。 講義の合間にお茶をすするのが悠然とした雰囲気。学生も、授業の休み時間には廊下に据え付けてあるタンクから、瓶やお弁当箱の蓋にお湯を入れて、水分補給をするのです。 中国ではちょっとぐらい風邪を引いて病院へ行っても、薬を出す前に「果物やお湯でよく水分を摂りなさい」と先ずアドバイスされるそうです。 病院でなくても、風邪を引いた、と中国人に話すと大抵は同じような言葉を掛けられます。 それだけ水分摂取の重要性を皆が分かっていて、既に無意識な内に生活の知恵となっているのでしょう。 ・・・以下続く。 (2011.10.31) 第七十七回 茶杯 2 さて、天津発北京行きの車中。 私たち訪中団の団員総数約400名。その全員分のお茶をサーブして廻るのですから、服務員大変だったことでしょう。しかも、一時もじっと座っていられない子供たちの間をすり抜けるようにして、車中を歩くのですから。 ・・・暫くすると、只でさえ賑やかな車内のあちこちで、バーン、バーンという炸裂音が聞こえ始めました。 当初、一体何が起きたのか判らず、少し騒然となりましたが、犯人は何と、車内に備えられていた、ガラス製のコップ。 その中国風の茶杯は、同じガラス製の蓋が付いていました。 耐熱性とは云え、ガラス製のコップにタップリの熱湯を注いで蓋をしたら・・・?熱気を逃すことが出来ずに、かくて茶杯は爆発してしまう、という訳です。 よく考えたら、それは道理。しかし、そういう事をしたらこうなる、とは、アチラでは分っていなかったのか知らん・・・? 私たちの足元や通路には、粉々になったガラス片が散らばっていました。 それを、先ほどまでヤカンをもって歩いていた服務員が、今度は箒と塵取りで掃いて廻ります。しかも、黙々と無表情で。 そして、それが済むと又同じガラス製茶杯を持ち出して、再びお茶のサービス。 何とも非効率的、と今なら呆れ、揶揄もしようものですが(失礼)、当時はビックリするばかり。 お茶は中国人のサービスの象徴的なものだ、という強烈な印象が、自分勝手に残りました。 それだから、でもないのですが、汽車を降りる時、コッソリと自分の飲んでいた茶杯を鞄に忍ばせ、とうとう日本まで持ち帰ってしまったのでした。 どうせあの時、炸裂音と共に砕け散った一つになったかも知れないならば、と心の中で言い訳をしながら・・・。 それが、写真の茶杯です。シンプルなデザインで、私はとても気に入っているのです。 たまに、茶葉とお湯を注いでみたりします。旧い思い出に浸り、熱湯に注意しながら。 ・・・以下続く。 (2011.9.26) 第七十六回 茶杯 1 もう時効だとは思うので、こっそり白状しちゃいましょう。 私の部屋の片隅に、この四半世紀という間、ずーっと置いてある、ガラス製の蓋付コップ。それは、私が1985年に中国から持ち帰った品でした。 何もかもが初めての海外渡航。その夏、初めて中国の列車に乗りました。 天津から北京への移動です。 現在は高速鉄道で30分の道のりも、当時はその数倍。たった数時間でも、北京がどんな所かもよく知らなかった私ですから、ワイワイと賑やかな車中で、ちょっとした小旅行気分です。 少なくとも、私にとって更に気分が盛り上がったのは、女性服務員による、お茶のサービスがあったせいです。 昔風の、向かい合わせに座る席の窓際には、小さな台が付いていました。 細かい記憶はアヤフヤですが、多分そこにはトレイの中に人数分の蓋付ガラス製コップ、ティーバッグが入っていたと思います。 女性服務員は、大きなヤカンを持って、次々と茶杯に熱湯を注いで通路を渡り歩いていました。 特に自分の力で頼んでいないのに人に何かをしてもらうなんて、子供に対して贅沢ですよね。当時の私は、そういう処に、何だか冥利を感じていたのでした。 お茶はジャスミン茶だったと思います。 当時、日本の某飲料会社から既に缶の烏龍茶は販売はされていましたし、ダイエットに効く、なんてもてはやされてもいましたが、烏龍茶以外の中国茶や、茶葉自体の販売は、まだまだ一般の日本人には身近なものではありませんでした。 因みに、現在は北京―天津間は、近距離路線に数えられるのか、座席のクラスに関係無く、お茶どころか、お湯のサービスも無いようです。 時短やスピードばかりもてはやされて、何とも淋しい、と思うのは私だけでしょうか。 ・・・以下続く。 (2011.9.2) 第七十五回 北京再訪記 5
北京滞在3日目の晩は、スリランカの友が暮らすアパートに宿泊。
3月15日で中国政府が供給する暖房が切れていたので、南国出身の彼女には、辛そうでした。 しかし積もる話で深夜過ぎ迄眠れず、翌朝はユックリ起床。 彼女も大学に用事があるので、共に懐かしの学び舎・北京大学に行って来ました。 以前は、余所者は勝手に出入り出来なかった留学生楼も自由に入る事が出来、自分が嘗て住んでい部屋のドアの前で記念撮影して来ました。 懐かしさに浸っている一方、寮の前では日本人留学生が、日本の被災地宛に募金を募ってTシャツなどを売っていました。 ・・・このようにして、今回の北京観光もあらかた終了し、スリランカの友とは再会を固く約束して別れ、老朋友夫妻と再度落ち合い、最後の晩餐。 北京滞在5日目の朝に、老朋友の車に送られて無事帰国の途につきました。 中国の最も旧い友人・老朋友とはもう四半世紀を越える仲。ご夫婦で私をまるで子供扱いするが如く世話を焼いて下さり、少し恥ずかしい位でしたが、ここは思い切って甘えてしまいました。 北京滞在中、現地で会った旧友や御親族だけでなく、タクシーの運転手、お店の店員、・・・皆さん私が日本人と知ると、真っ先に慰問の言葉を寄せて下さり、何だか温かかったです。 何ヶ月も以前から予定していた事とは云え、震災や原発事故が発生しているこんな時に海外へ出かけるなんて、とも思い迷いました。が、結果的には却って心身の休養に丁度良かったです。 数日ぶりに舞い戻った日本では、やはり未だ事態の収拾に至っていませんでした。天災は避けられない部分が多いけれど、人災は・・・。 留守にしていた間に、日本国内だけでなく他国でも色々な事が起こったりして、まだまだ落ち着かない日々が続くようですが、早く平和になって欲しいと切に願う渡航となりました。 ・・・以下続く。 (2011.7.11) 第七十四回 北京再訪記 4 観光の初日は、オリンピック公園に始り、北京最大のチベット仏教寺院寺院・雍和宮、嘗ての最高学府があった国士監街を歩き、前門へ。 スッカリ整備され、老北京の様子を取り戻したような前門で、大好きな北京ダックの昼食を頂きました。 改装され正式開館を待つばかりの中国国家博物館の正門前には、巨大な孔子像がそびえ立っていました。 政治的、地理的にも首都・北京の中心を走る大通り・長安街上に、天安門広場の(毛主席紀念堂に眠る)毛沢東と並ぶようにして古代の大思想家・孔子が並んで立っているというのは、何とも象徴的ではあります…。 その後も后海、流行のオシャレスポット・南鑼鼓巷と歩きながら何種類もの伝統的な北京の小吃(シャオチ―・スナック)をつまみ、夜は老朋友と別れて、北京在住の日本の知人やスリランカの友と一緒に東来順にて、しゃぶしゃぶをつつきました。 スリランカの友とは、北京大学を卒業した彼女が引き続き留学していた米国はハーバード大学に訪ねて以来だから、10年ぶりの再会。 待ち合わせ場所の北京飯店ロビーで、感動の抱擁を交わしました。が、その場に居合わせた日本の知人からは、後で「今時、北京飯店なんて待ち合わせ場所に使わない」と言われてしまいました。 今は、北京ならば新東安広場(嘗ての東安市場、もっと旧い呼び名だと東風市場ですね)の入り口などが王府井における、一般的な待ち合わせスポットなのだそうです。 私にお任せする、と言われたので、自分的には王府井のランドマークだったこの旧いホテルのロビーを指定したまでですが…。 マ、私も旧い人間、ということでしょうか。 北京観光の2日目は、今迄行った事の無い処を中心に廻りました。 潘家園旧貨市場、東郊市場、中国現代文学館、前衛芸術家の作品が集まる798芸術地区、等々…。 以前から欲しかった鳥かごも、念願叶って購入出来ました。 中国では鳥を飼うのは、主にオジサンの趣味なようで、よく公園に自分の鳥かごを持参して仲間に自慢したり、寛いでいる様子が、イイカンジなのです。 私自身は、鳥を飼っておらず、ただインテリアとして憧れていただけですが…。 高級品ではないものの、竹製でデリケートなので、持って帰るのが大変でした。 ・・・以下続く。 (2011.6.13) 第七十三回 北京再訪記 3 結局は、今回の北京滞在では、中国の老朋友夫妻に観光から食住、交通に至る迄、スッカリお世話になってしまったのでした。
彼等も、一応被災者である私の来訪が嬉しかったようで、本当に温かく迎えて下さり、愉しい時間を一緒に過ごせて有り難いことでした。 さて、北京滞在丸3日間で、何処をドウ廻るか。 私は、久し振りということもあるし、旧い北京を訪ね歩くことに重点を置いてプランを練っていましたが、主にアテンドして呉れた老朋友にしてみれば、オリンピックを経て新しくなった北京を、私に観て欲しい意図があったようです。 しかし、新しいスポット・・・ガラス張りのショッピングモールや、超高層のホテルなど・・・は、これから先いくらでも訪れる機会があろうというもの。 そんな処よりも、失われつつある旧い処へこそ今行っておくべき、という考えが強い私なのでした。 しかしオリンピック公園は、やはり世紀のイベントが行われた場所ですし、一度は行っておかねば、と思っていました。 6年前、鳥の巣も水立方も、影も形も何も無いオリンピック予定地を、わざわざ車で走って貰ったことがあります。 丁度、立ち退きが完了したばかりの風情で、広大な空き地の中に車道が通り...、という感じでした。 今後の地代上昇を見越してか、空き地を遠巻きにするように、マンションが既に点点と建てられていました。 あの頃は、ココがコウなるとは想像だに出来ませんでしたが・・・。 オリンピックを挟んで、確かに北京の街は更に変って行ったのです。 ・・・以下続く。 (2011.5.19) 第七十二回 北京再訪記 2 出国の数日前、今回飛行機のチケット手配をお願いした、中国専門の旅行社を経営している友人から、中国人の出国ラッシュが続いている、とメールがありました。 大きな地震に慣れていない(?)のと、何より原発の恐怖から、彼等を日本脱出に駆り立てているようです。 皆早く日本を出たいようで、友人の会社では、数日間電話が鳴りっぱなしとか。会社のスタッフは昼食も摂れない程の忙しさだったようです。 尤もこれは中国人に限らず、例えば東京在住の、私の友人であるフランス人なども、早々に避難帰省しています。 兎も角、私の渡航に際し、中国の知人複数からは「北京に行ったら、暫く帰って来ない方がいいヨ」と言われました。そんな・・・。 聞いた話では、北京行きのチケットが、最高で30万円超に値上がりしたとか。 私が今年の初めに購入したチケット代は、その十分の一程度でしたから、凄いです。 しかし逃げブーム(!)とは。嫌われたものです・・・。 中国ではその頃、「塩騒動」が起こっていました。 食塩に添加されているヨウ素が、放射能による被爆を防ぐのに有効、という風評が広がり、人びとが購入に殺到したというもの。 勿論、放射能汚染予防には何の効果も無く、という結末ですが、それだけ中国の皆さんにも不安な思いをさせた、今回の原発事故でした。 「大核民族(中国語で、大和民族と同音)」「塩慌子孫(塩を求めて慌てる様を表現しているのか・炎黄子孫と同音)」なんて言葉が生まれたようです。 今回は珍しく夕刻発の便で、当初は夜遅くの現地到着に不安でした。しかし、午前発だったら、地震や原発事故による停電の影響で、遅刻しないで空港に到着する手立てが得られなかったかも知れません・・・。 元々リムジンバスで空港に行こうと算段していましたが、出国の数日前より燃料不足につき、バスの運行を極端に制限することが決定。 出発に際し、何とも後ろ向きな話です。 しかし、関係各位による復旧努力は素晴らしく、出国当日には、電車が節電ダイヤながら、各駅停車、特急共に運行されていました。 空港は、年末年始も斯くや、と云わんばかりの人ごみ! 大丈夫かな、と少し途方に暮れましたが、列が長いだけで大きな混乱も無く、チェックイン、搭乗、となりました。 飛行機は予定通り、夜10時過ぎに北京に到着。 話には聞いていましたが、新しいターミナが増設された飛行場の美しさに、先ず驚いた次第です・・・。 入国して外に出ると、出迎えに来て下さった中国の老朋友夫妻が、私の名前をデカデカと書いた紙を掲げて待っていて呉れていました。 ひえー。恥ずかしいよぅ・・・。 ・・・以下続く。 (2011.4.14) 第七十一回 北京再訪記 1 2011年3月、春分の日の連休を利用して、久し振りに北京へ行って来ました。 その出国日からさかのぼる事、丁度一週間前。2011年3月11日に関東、東北地方に巨大地震が発生しました。 その後も余震、大津波、更に原発事故、・・・と多くの困難が、被災地を襲い続けています。 私も、地震発生当日は、バスを乗り継ぎ、延々と明治通りを歩き続けて、トータル5時間半かけて帰宅に漕ぎ付けました。 勤務先でも地震発生後数日は、出社が出来ない者、鉄路が運休して長距離バスに乗って出勤する者、色々でした。 一部の業務に支障が出た中、多くの中国、台湾、香港の取引先からお見舞いのメールやファックスが届きました。 被災地を中心に、郵便物の配達停止の措置が取られたので、暫くの間、現地から顧客への直送品は発送を控えて貰うよう要請するなどの対応に追われています。 阪神淡路大震災で被災した、我らが「江南春琴行」の店主殿からも、早速お見舞いメールを頂戴しました。 ・・・そんな最中における、出国でした。 そう云う訳で、これから5回ほど、今回の北京行きのお話をお送りしたいと思っております。 事の起りは、2010年も押し迫った頃。 北京時代のスリランカの友人から、珍しく便りがありました。母国で考古学の研究を続ける彼女が、現在北京に滞在しているというのです。会いたいな、と。 私自身も、北京は約6年ほど行っていないし、久し振りにユックリ街を歩きたい・・・、という積年の思いも有り。 いつも行きたい行きたい、と騒いでいるものの、なかなか簡単に再訪出来ないでいました。 キッカケ(=スリランカの友)とは、こんな風に突然現れるものなのかなぁ、と思いました。 実は、私は海外渡航に関して、殆どがツアーや受け入れ先のアンパイで訪問していて、中国へすら、自分で全てを手配して渡航行したのは、数える程しか無いのです。 お宿は、当初は旧い四合院を改造したホテルに興味があり、泊まってみたいと思っていましたが、今回の北京行きを決める直接の原因(?)となった、スリランカの友から、彼女の住んでいるアパートに泊まって頂戴、と申し出がありました。 四合院ホテルも些か捨て難いけれど、今回は彼女の好意に甘えるかな・・・、と思っていたら、北京の老朋友からも連絡が入り、やはりと言うか、案の定と言うか、てぐすね引いて待ち構えているという表現がピッタリ。 結局、彼女のアパートにも1泊させて頂きましたが、基本的には、北京の老朋友が持っているアパート(の一つ)に宿泊。 因みに、その住居がどんなに瀟洒だかは、『玉手箱』の第36回~辺りを参照してみて下さい。 ・・・以下続く。 (2011.4.2)
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