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中国今昔玉手箱-江南春琴行
江南春琴行

かずよさんの『中国今昔玉手箱』


【第八十一回―第九十回】




第九十回 中国今昔玉手箱・30周年 5

 昔は、中国へ持参するお土産品に困ることはなかったのに、現在はさに非ず。
 ネットショップも大いに発達して、中国でも大都市に住まう限りは、日本とそう変わらない消費生活が送れるようです。それだけに、今回も何を選ぼうか迷いました。
 本当に、昔は良かった、です。ストッキングやタバコ・・・といったモノでも、十分事足りたのですから。

 因みに30年前の中国初渡航で、私はどんな土産品を購入したのか。
 当時のレートで1元が89円くらい?大体1元を100円で計算していました。各団員に渡されたお小遣いは、今は無き外国人用紙幣・外貨兌換券による支給です。
 物価も安かったのか、色んなモノが買えました。絵皿、ティーセット、チャイナドレス、墨、刺繍のスリッパ、掛け軸・・・。値段を覚えているものとしては、上海で手に入れた玉の腕輪3元、『三国志』で諸葛亮孔明が手にしているような羽扇子3元、人民服24.5元などなど。自分でも驚くのが、これらの殆どが未だ我が家のどこかに存在しているということです・・・。

   さて、30年後の日本から中国への土産品や如何に?
 日本人であるA嬢へは、日本の食料品を中心に選べば、多分間違いないと踏んで準備しました。
 が、中国人への贈り物は・・・。慣習的には大きくて嵩張るものが喜ばれるだろうけれど、むむむ。アチラはもう何でも持っているだろうしなぁ・・・、なんて思いつつ、遅々として進みません。
 どうせなら何か記念になるようなモノを差し上げたい。我が両親からも・・・、となり、荷物の大半をお土産品で占めるいで立ちとなりました。
 私が海外へ持参する土産品を選ぶポイントの一つ -郵送では破損や紛失が案じられるようなモノ- に従い、フランス製のクリスタルの置物、富士山が描かれた飾り皿・・・などを選びました。

 北京で荷を解かれ、現れた土産品の山を見たM氏夫妻からは「これからはこんなに持って来なくていいからね。自分たちも(私たちに)そうしないから。お互いにそう認識しましょう」と言われてしまいました。サースガー・・・。

 でも、中国から大挙日本へ押し寄せた旅客が各地で繰り広げた「爆買い」が、2015年の流行語大賞に輝いたくらいです。自分用だけでなく、周囲から頼まれて購入する品が少なくないようですが、頼まれるにしても、日本人とは種類も量もスケールが異なります。まだまだ、M氏夫妻が特別スマートな部類だろうと思われます。

 持参した中で、途中没収されたらどうしよう、と心配していたのが、お祝いに注文したケーキでした。わざわざ出掛けるからには、花を添える演出も欲しい。「30周年」を祝うのだから、年輪をかたどったバウムクーヘンに、お店のオリジナルで飾り用のビスケットにメッセージを書いて貰いました。

・・・・・・以下続く
         (2016.4.18)






第八十九回 中国今昔玉手箱・30周年 4

 きっと超多忙なのにも関わらず、仕事や時間を遣り繰りして下さっているのだろうなぁ、とM氏夫妻に会うたびに、そう思います。

 前回は、東日本大震災の騒ぎの真っ最中での渡航でした(『玉手箱』第71回~参照)。そういう意味でも、強く印象に残る中国行きでした。
 今回は、仕事場を出るまではせわしなかったものの、午後からユッタリした気持ちで空港へ向かいました。平日の東京の街は、平和そのもの。一方、被災地では今も多くの問題を抱えていることに、しばし思いを馳せました・・・。

  搭乗機が北京に着くと、M氏夫妻は遅い時間にも関わらず、温かくお迎え下さいました。

 今回のお宿は、前回泊めて頂いたのとは別の、彼らが普段住まいにしている所。クラシックな中国家具に囲まれた、素敵なお宅です。

 写真で見て知ってはいましたが、本物が放つ雰囲気は、やはり違います。
 奥様がご実家から受け継いだという家具は、清朝~民国時代にあつらえられたのだそう。これだけのものが、一体どうやってあの混乱の時代をくぐり抜けて来たのか。また、維持し続けられたという点からしても、色々な想像が浮かんできてしまいます・・・。
 30年来の老朋友とは云え、実は、私は彼らのバックグラウンドの全貌をよく知らないのです。
 「そんなの、アヤシイー!」と思うなかれ。
 外国人との付き合いに於いて、政治的な話をしないのがエチケットならば、パーソナルな部分もあまり根掘り葉掘り聞かないに限るのです。子供の頃から言い含められていたのかは忘れましたが、何となく、昔からそんな風に私は思っていました。
 問いただしたところでドウするのサ、と考えると別段細かく尋ねる理由も見当たらないですし、逆に自分のほうは、自慢するような係累も無し。私の語学力の欠如も手伝って、そのままにしていたら月日が経っていた、という感じでしょうか。

 彼らが実家や一族の話を必要以上にひけらかさないのは、育ちの良さからくるものかも知れません。いくら私がボーっとした人間でも、海外渡航が難しかった時代に国費留学で来日を果たしている事や、その物腰、長い年月の折々に交わされた言葉の端から知り得る事、感じ取る事はあります。

 話す必要がないと判断するならば、それでいい。肝心なのは本人がどうであるか、どのような交流をしてきたか、なのだから。
 これで正解だったと、私は今でも思っています。

・・・・・・以下続く
         (2016.2.22)






第八十八回 中国今昔玉手箱・30周年 3

  年頭には想像もしなかった再会の集いが、成功裏に実現しました。当時のままのノリで、すぐにその場で次回の発案が挙がったほどです。
 結局、2015年は3月、4月、8月、12月と集まる機会を持てました。

 それは思いもかけず素敵な出来事となりましたが、実は私個人でも「30周年」を意識していました。
 もともと中国への記念旅行の計画を温めており、5月に実行の運びとなりました。

 目的は勿論、30年前(或いはこの30年間)を追憶する旅。
 可能ならば当時の渡航ルートに従い、天津→北京→上海と行きたいところでしたが、勤め人の哀しさで日数が取れない。上海は2年前に行ったのだから、と諦めました。
 船旅の良さは、初渡航の旅で大いに認識していましたが、選択の余地無し。しかも金曜日の午前中出勤、午後から空港へ向かい、夕刻の便で北京へ飛ぶという涙ぐましさ(?)です。ある程度自分の都合で予定が組める自由業の方が、本当に羨ましい・・・。

 とは言え折角行くのだから、充実の旅でありたいもの。場所だけでなく人も、ということで、渡航案がほぼ固まった頃、中国の老朋友・M氏夫妻に連絡を取ってみました。


 M氏夫妻については『玉手箱』第35回辺り~・・・をお読みいただければと思います。彼らともメデタク、30年来の友となりました。
 今回、またしてもM氏にお世話を掛け、ご自宅にお邪魔することに。以前より興味があった「四合院ホテル」に泊まってみたかったし、お宅に上がり込んでまで~、とご遠慮したのですが、彼らにかかると「一緒に居たほうが、出掛けるにも時間の節約になるし」となり、あえなく降参。

 他に、私が北京大学に留学していた時からの知り合いで、北京在住10年のA嬢にも連絡。A嬢とは私の留学終了以来お会いする機会が無く、実に20年以上ぶりの再会となるので、これまた愉しみ。
 夏前の北京を歩くのは、本当に久しぶり。天津も20年以上ご無沙汰です。日程を5月に選んだのは、日も長くて、気候的にも過ごし易そうだから。目一杯動き回るには好都合です。
 M氏夫妻とは北京、A嬢とは天津を一緒に廻ることになりました。
 たった2日半の北京&天津旅行。果たしてどうなることやら・・・。

・・・・・・以下続く
         (2016.1.28)




第八十七回 中国今昔玉手箱・30周年 2

 突如盛り上がった再会話。さっそく集いの準備です。
 中国に行った仲間だから中華料理店が良いだとか、色々意見も出ました。最終的に、30年前に団員採用の面接会場となり、渡航前や帰国後に研修を行った施設内のレストランを予約しました。

 急に忙しくなり、レストラン側とメニューを相談したり、出席者へは案内の発送、消息不明者へは捜索を続行。そうして久しぶりの再会を愉しみにするかたわら、時に不安を覚えるようになりました。

 私自身は、この渡航がきっかけで中国人と文通、大学は中国文学科へ進学、在学中に北京大学へ国費留学、就職は中国関係の会社・・・、と中国との腐れ縁が今日まで続いてしまっているようなものですから、それなりに思い入れがあります。

 あの中国への旅は、殆ど学校と家以外の世界しか知らなかった私の視野や興味が、大きく広がった転機となりました。
 事業本来の目的であった筈の、社会に貢献する立派な人間にはなれなかったけれど・・・と反省も僅かにありながら、渡航中の二週間は、仲間から様々な刺激を受けつつ、語り合い、ぶつかって気まずい雰囲気になる場面もあったけれど、泣いて笑って生活を共にした貴重な日々。
 「中国と私」をお話しする上で、基盤となる体験に他なりません。

 でも、私のように当時の興奮や感動にそれほど思いを遺していない、冷めた方も居るでしょう。病気や家庭の事情で、そんな昔話に浸っている余裕の無い方もあるかも知れません・・・。  そんな不安と、再会への期待が入り混じったまま、3月のある週末、「洋上セミナー参加30周年記念の集い」が開催の運びとなりました。

  少なくとも出席の方々は変わらない様子で、スグに昔に戻って打ち解けた雰囲気の中、盛会でした。私の物思いは杞憂に終わったのです。
 東京都青少年洋上セミナー第6団4組(7班男子16名、8班女子16名)&引率の先生2名計34名。集い当日の参加者9名也。
 2割以上も集まったのだから良しとしなくては、と思います。

 事前に呼びかけておいたので、持ち寄った「懐かしグッズ」(東京都が配布した事後報告冊子、団服、手紙、アルバムなど)を、みんなで眺めて当時を偲んだり、引率の先生からは当時の指導員用資料を頂きました。先生からは、今だから伺える裏話などもお聞きすることが出来、長年の疑問が解決する場面もありました。
 昔からボーっとしている私でしたが、周りの大人たちは個性的な班員の集まりだった私たちを、温かくおおらかに見守って下さっていたことに今更ながら気づき、改めて感謝の念を持った次第です。


・・・・・・以下続く
         (2015.12.30)






第八十六回 中国今昔玉手箱・30周年 1

2015年になって早々、中国へ初めて行った時の仲間内で話題になりました。
 「あれから30年も経っちゃったんだね」。
 私たちが「東京都青少年洋上セミナー」に参加したのが1985年なので、確かに30年。あっという間です・・・。

 それは、東京都と北京市が友好姉妹都市の関係で、都内の高校生を友好使節団として毎年一隻の船で送り出す青少年育成事業の一つでした。
 もはや時代が変わり、東京都も財政の関係か、何らかの見直しがあったか判りませんが、この事業も終了してから大分年月を数えているようです。子供のうちからの海外渡航も、既に珍しいことではなくなりました。

 何度も言うようですが、あれから30年。当時の仲間の大半とは音信不通状態ながら、一部では年賀状の遣り取りなどが続いていました。その中から「久々に会おうよ」の声が挙がったのでした。
 便利な世の中となり、他の仲間から繋いで貰い、消息不明だった何名かとは、メールでスンナリ交流が復活しました。しかし他は・・・。電話やハガキという、地道な手法を取らざるを得ませんでした。何せ、ずっと会っていない人だと、前回会ったのがPCもケータイもスマホも普及する以前からご無沙汰なのです。
 成り行き上、私が連絡係となり、当時の名簿を元に捜索するも、難航しました。 実家も移転しているのか、とうとう消息が掴めなかった人、何度電話しても留守電で本人確認が出来ない人、結婚、離婚、逝去、・・・と状況は様々。つくづく、歳月の長さを感じます・・・。


 それでも、同じ組の仲間の半数に上る人員について、消息の確認が出来ました。
 ネットで名前を検索して探し当てられた人もあり、時代の恩恵に浴するケースも出現しました。
 シカシ。住所も姓も、当時と全く何も変わっていないのは私と、あとは当時既に大人だった引率の先生くらい。それもドウなの~?? と些か悩む私でアリマシタ。

・・・・・・以下続く
         (2015.12.30)


第八十五回 歌舞音曲紀行・エジプト篇

 大学生の時、卒業を控えた前年以外のクリスマスを日本で過ごしたことが無い、というのが私の密かなジマン(=自己満足)であります。

 所属していたクラブ活動がオフになることもあり、クリスマスの前に出国して、年内に帰国。価格帯が少し下がる合間を狙っての旅でした。

 今ほど豊富な情報など無かった時代にエジプトを旅先に選んだのも、そんな頃。
 12月のエジプトは、春先の流砂や真夏の灼熱の太陽が避けられるベストシーズンだとは、実は後で知ったことでした。

 たまたまだけれど、お陰で丁度良い気候の中、旅を楽しむことが出来ました。こと、旅先を選ぶことにおいては、割りと勘が冴えているのではないかしら、と自負している私です。

 しかし、閉口したのは「バクシーシ」。
 宗教的には「喜捨」というのでしょうか。

 宗教的にも慣習としても、寄付とか施しという行為にあまり慣れていない日本人にとっては、釈然としない思いを抱える人は少なくないでしょう。

 乗り物から降りて、手を貸してくれたと思ったらバクシーシ。
 ラクダに乗せて貰うと、料金とは別にバクシーシ。
 化粧室で手を洗っていると、ペーパーを差し出してバクシーシ。

 全く頼んでいないのに、何なのサ、です。

 「チップ」は、受けたサービスに対しての「気持ち」なので、理解は出来ますが、宗教が絡むと、とたんに日本人には判りにくいものとなります。

 今でも、この事情はそう変わらないと思います。

 因みに、買い物をする時も、バクシーシ。
 あまりにシツコくて混乱したのか、折角値切ったのにお釣りを貰うのを忘れたという痛恨の思い出(何だか、負けた!という屈辱感めいたものが・・・)の買い物が、エジプトの打楽器・レクでした。

 夜店で買ったお土産品ですから、洗練された作りには程遠いもの。ジングル(シンバル)が、ブリキ(?)を切り取ったまま付けてあるのが一寸アブなく、手作り感満載。

 古くは、旧約聖書の出エジプト記にも記された楽器・レクは伝統的なアラビアン・アンサンブルではリズムマスターの役目を担う役割を持つのだそうです。

 宿泊していたカイロのホテルで偶然、結婚パーティが行われているのに出くわしました。
 当時撮影した写真を改めて見てみると、確かに新郎新婦を祝う楽団を率いているのが、レクですね。

 賑やかな音楽に包まれて幸せそうなカップルの様子を暫く見ていました。お幸せに!
 私が部屋に引き揚げた後、深夜になっても祝宴の音は続いていました・・・。



又『玉手箱』でお会いしましょう!!
         (2015.12.11)




第八十四回 歌舞音曲紀行・スペイン篇

バブルの絶頂期を過ぎる頃に私は中国へ渡り、帰国したら完全にバブルがはじけていた日本。

この時期、私もしっかり世間の荒波に揉まれました。

 大学卒業後、ヨウヤクの思いで社会人になれたのは、中途採用を募集していた会社に合格し、その年の夏も過ぎ去ろうとしていた頃のことでした。

 会社からメデタク採用の連絡を受けた後、すぐさま考えた事は「どこに旅行へ行こうか」。

 入社迄あとひと月余り。続けていたアルバイトとの兼ね合いもあるけれど、社会人になったら海外旅行なんてもう出来ないかも知れない!と半ば強迫観念めいた思いが、突如湧いたのでした。
 という訳で、急いでツアーを探し、機上の人になって向かったのは、スペイン。


 スペインと聞いてイメージするものは少なくないと思われます。
 フラメンコ、闘牛、スペイン料理、ひまわり畑、アルハンブラ宮殿、・・・。
 少なくとも日本人にとって、その風土を思い浮かべる材料に事欠かない国の筆頭ではないかしら。

 同じく抱かれるイメージに「情熱的」とか「明るい」などの語もあるかと思います。

 今思えば、自分と異質のオーラに触れることで、社会人の切符を手に入れる少し前迄は何事も巧くゆかず、輪をかけて暗い日々を送っていた自分を払しょくしたかったのかも知れません。

 激しいステップ、掻き鳴らされるギター、ふりしぼるような歌声、・・・。
 フラメンコは、スペイン南部・アンダルシアで生まれました。
 古くはインドから西に移住したロマ族(俗に云うジプシーの呼称が現在でも根強く残っている)、かつてスペインまで勢力を展ばしたイスラム帝国の末裔・アラブ系民族、そしてアンダルシア在来の民間芸能が融合したものだと言われています。

 フラメンコは本来、歌(カンテ)から発祥したと言われています。
人びとが吟じた喜びや悲しみからリズムと旋律が涌き、ギターが加わり、自然と身体が舞い(バイレ)・・・というところから、次第に洗練、形式化されたようです。

 私たちのような観光客でも、カフェ・カンタンテ、とかタブラオといったスペインの酒場で、気軽に飲食しながらフラメンコを愉しむ体験が出来ます。

 これは元々サンブラという、グラナダのフラメンコの宴・フィエスタが、いつしか変化したものだと言われています。

 フラメンコの本場中の本場・グラナダ滞在の晩に、私たちもあるタブラオの席についていました。

 そこは、板張りの舞台がせり出していました。

 まん前に席を陣取っていた私たちは開演後、度肝を抜かれることになります。

 何しろ歌も踊りも、凄い迫力。汗が飛び散る、歌はマイク無しで充分!ライブならでは、でした。

 しかし、こうしたタブラオでのフラメンコの本番は、実は深夜に入ってからだとか。

 私たちも夕食を済ませてから鑑賞に出掛けたのですから、相当に遅い時間ではありました。
 満腹と旅の疲れと、時間も時間だったので、ついウトウト・・・としている内に、ダンサーがステップを踏む凄まじい音にビックリ。閉じていた瞼も開こうものです。くだんのダンサーたちは、板上に硬い靴底を叩きつけんばかりで、脚を痛めないか、心配になる程。

 いけないイケナイ。折角のフラメンコなのに、眠ったら勿体無い。しかし、又暫くするとウトウト・・・、の後にダダダダダッ!!!!のステップ音に覚醒され・・・、がしばし繰り返されました。

 ダラシナイ、と我ながら思いましたが、後で聞くとツアーの他の方も、多くは同じような感じだったようです。

 眠気と格闘した、グラナダの夜でした。

・・・次回はエジプト篇!
         (2015.10.30)




第八十三回 歌舞音曲紀行・ギリシャ篇

 姉と旅したギリシャ旅行から持ち帰ったのが、写真の熊ちゃんが持っている、ブズーキというギリシャの弦楽器を模したオルゴールです。

 ブズーキは、現代のギリシャ音楽で中心となる楽器。ボディの丸い底はマンドリンに似ていますが、長いネックが形の特徴。3コース(6本)又は 、4コース(8本)の弦が張られていて、現在では4コースが多いとか。金属の弦は張りが弱めであるため、ギンギンとした金属音が強調された音質 となっています。

 ブズーキは、セルビアやボスニア・ヘルツェゴビナといった、バルカン半島の民族音楽でも演奏されているそうです。
 また、アイルランドでもよく使われていて、ボディの底の形が平らという違いがあります。これはアイリッシュ・ブズーキと呼んで区別されています。

 このブズーキ型オルゴールは、姉が私に買ってくれたものでした。
 本物の楽器を買うには、大きいし、果たして自分がプレイするかも不明だし。でも、こんなお土産品だったら、気が利いていますよね。

 アテネの宿にチェックイン後、夕食迄の空き時間を利用して姉が街に買い物に出た際、見つけて来たのでした。

 風邪気味で服用した薬が効いたのか、もの凄い睡魔に襲われていた私は、珍しく買い物には同行せず、一人で部屋のベッドに寝ていたのでした。

 ・・・どれくらい経ったのか、周りで物音がしたような気がしました。姉が帰って来たのかと目を覚ますと、其処には前掛け姿のオバサンが複数立 っていました。

 こちらも寝ぼけまなこでしたので、何が何やらサッパリ。アチラも、起こして御免なさい、というようなジェスチャーで、すぐに部屋を出て行く様 が、朦朧として目に映っていました。

 その後又眠りにつき、夕食の時間に起きてその話を姉にすると、酷く驚き、部屋のチェーンを掛けなかった私をなじりました。

 強盗だったら、アンタ、どうするのよ!!

 あ、そうか。そう言われてみれば、確かに私が不注意でゴザイマシタ。

 しかし、何も盗られていないし、刃物は持っていなかったと思うし、ひょっとして夢と現実をごちゃ混ぜにしてしまったのか知らん、と呑気に考え てしまう私・・・。

 しかしその夕食の席で、ツアーの他の方からも同じように見知らぬオバサンたちが勝手に部屋に入って来たという話を聞きました。

 どうやらオバサンは恐らくホテルの従業員で、クリスマス時期だったのでチップを弾んで頂戴、と部屋を廻っていたらしい、という事で話は落ち着 きました。

 オルゴールの曲は、60年代に大ヒットしたという映画「日曜はダメよ」の主題歌。この曲を聴くと、あの旅の一コマを思い出します。


・・・以下続く
         (2012.10.25)




第八十二回 歌舞音曲紀行・白鳥の湖 2

 さて、ロシアのマリンスキー劇場。

 かつてロシア帝国の首都、サンクトペテルブルグに建てられた皇室の劇場として、バレエやオペラが上演される中心的な施設に君臨。
 1859年竣工の、ネオ・ビザンチン様式。
 1860年、皇帝アレクサンドル2世の皇后、マリア・アレクサンドロヴナの名前にちなみ「マリアの」という意味の「マリンスキー帝室劇 場」と名付けられました。

 ソビエト連邦時代(1924-1991年)は、キーロフ劇場と名称を変えて呼ばれていましたが、現在はマリンスキー劇場の名称に戻って います。

 「白鳥の湖」の他、「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」もここで初演されています。

 日本でも、世界中から名だたるダンサーが公演に来日してその素晴らしい踊りを堪能することは可能です。
 でも、欧州の劇場が有するゴージャスな雰囲気だけは、自然の景観と同じく、いくらお金を積んでも運びようがありません。

 マリンスキー劇場も、帝政ロシア華やかなりし頃を彷彿とさせる、伝統と気品のある劇場でした。

 ・・・しかし、夢のような空間にウットリしつつもガッカリしたのは、幕間に入ったトイレ。

 例えに挙げたら怒られてしまいそうですが、中国のトイレみたい、と言ったら判り易いかしら。
 他の内装とはガラリと変って、殺風景な仕切りに洋式便器。紙を流さない代わりに金網製のくずかごが据えられていて、トイレットペーパー は無かったかも・・・。

 現在は改装されていると願っていますが、あれは興ざめでした。

 それはさておき、ストーリーは分かりきっているとは言え、やはり本場での「白鳥の湖」鑑賞は素晴らしかったです。

 現地ガイド嬢の説明では、ロシアでのバレエやオペラの本格的なシーズンは秋から冬にかけての頃。
 夏は、ダンサーの皆さんもバカンスを過ごしたり、又は海外へ「出稼ぎ」に出掛けたりする訳です。

 日本の劇場のように上演プログラムは販売していないのか、はたまた売り切れだったのか入手出来なかったので、当日のダンサーが分からな いのは残念でした・・・。

 本場のロマンチック・バレエに触れた感動に浸りながらホテルへ帰るバスの窓から外を見ていると、あれれ?通りという通りに、人っ子一人 見えなくて変なカンジ。
 ふと時計を見ると、夜の10時を過ぎていました。
 でも、太陽はまだ辺りを明るく明るく照らしていて、辺りは午後の昼下がりくらいの様子。
 そう、白夜のシーズンだったせいです。
 いくら外が明るくたって、夜も10時を過ぎれば、人が寝入る時間帯です。住民にしてみれば外が明るかろうが何だろうが、時間に従って日 々の生活を送っているだけのこと。
なるほど、ナルホド。

 ・・・こうして段々と、私も夢の世界から現実に戻りつつありました。


・・・次回はギリシャ篇!
         (2012.10.4)




第八十一回 歌舞音曲紀行・白鳥の湖 1

 ロシアで、バレエを観る機会に恵まれました。

 場所は、サンクトペテルブルグのマリンスキー劇場。
 参加したツアーのプログラムで、オペラかバレエのどちらかを鑑賞することになっていたのですが、演目も含めて現地入りするまで不明。
 旅程と鑑賞当日の会場のプログラムいかんによるものでした。

 とは言え、バレエにしてもオペラにしても、世界トップクラスのレベルを誇るお国なのだから、ハズレがある訳が無い、くらいに思っていました。

 果たして、当日の鑑賞はバレエ。しかも、演目は「白鳥の湖」!! ラッキー!!!


 ・・・多かれ少なかれ、大概の女の子はバレリーナに憧れを抱く時期があるのではないか知らん?

 例外に漏れず(?)、私もそんな子供の一人でした。
 当時流行ったバレエ漫画は何度も読み返していましたし、イラストもよく真似したものです。

 私にとって、特に「白鳥の湖」は、思い入れのあるバレエ作品なのでした。
 子供の頃、母が買い与えてくれた沢山のレコードに、音楽劇「白鳥の湖」がありました。

 ストーリーのナレーションと、チャイコフスキーの音楽で構成されていて、それこそ飽きることなく聴いていました。
 ビデオもカセットデッキも無い時代でしたから、レコードの音と、ジャケットの中に描かれた物語と挿絵に、幼いながらも大いに想像力を鍛えた作 品、と言えるのです。

 そんな私が、伝統ある、しかも初演された劇場での「白鳥の湖」鑑賞だなんて。しかも数日前にはモスクワで、チャイコフスキーが「白鳥の湖」の構成を考えたという、ノヴォデェヴィーチ修道院の池も見学してきたばかり。

 嬉し過ぎる、とはこのことではないでしょうか・・・。

・・・以下続く
         (2012.2.2)



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