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かずよさんの『中国今昔玉手箱』


【第九十一回―第九十七回】




第九十七回 30年目の故地重游 7

 北京と天津に一日ずつ割いた旅も、もう帰国日。なるべく長く滞在するべく、夕方発の飛行機を予約したので、午前中はまだ廻れます。
 という事で、今回の旅のハイライト・北京師範大学附属実験中学へ連れて行って貰いました。

 曾て地元の高校生と交流する目的で訪問した同校も、のどかだった昔とは変わり、30年後には出入りに厳しいチェックが必要となっていました。
 既に教職を退いて久しいM氏夫妻(彼らも当時は、ピチピチの歴史&化学教師だった)から、昔の先輩教師(既に定年退職し、学校の近所に在住)にお願いして、見学手続きをして頂きました。
 
 校舎や施設の殆どが建て直されていましたが、30年前に私たちが迎え入れられた建物は、昔のまま残されていました。それでも中に入ってみると、集会所だった部屋は舞台が取り払われ、学生食堂に様変わりしていました。
 あの時の交流は、時間にして一時間くらいだったでしょうか。中国の学生たちによる見事な踊り、アコーデオンの演奏などが披露されました。 ここまで本格的な歓迎を受けるとは(多分)事前に知らされておらず、私たちは即席で歌を歌ってお返ししました。歌と云っても、何も準備していなかったのでアカペラです。レベル的にも全く比べものにならず、お恥ずかしい限りな有様でした。

 その交流の席で、同じテーブルについていた一人がM氏であり、私が誰彼かまわず名刺代わりに配っていたと思われる(いずれも記憶が曖昧)住所を記したメモを頼りに手紙が海を渡り、今日に続いた事を思うと、非常に深い感慨を抱きます・・・。

 後で知ったことですが、当時から市内の進学率ナンバーワンにして模範校を誇るだけあって、同校は海外からのお客様の見学がしょっちゅうあったようです。歓迎行事の演し物やノウハウに事欠かないのは、うなずける話でした。
 北京滞在中は、引き続き何人かの学生が、付き添いで観光地や宴会に同行してくれました。私たちのような普通の高校生の寄せ集めとは違い、彼らは文字通り、選ばれた文武に優れる秀才諸氏だったのでした。

  M氏夫妻に改めて尋ねてみると、あの世代の卒業生は殆どがアメリカなど海外に渡っているらしく、消息も不明との事。
 大学こそ国内の北京大学や清華大学などの重点校に進学しても、就職やその後の見通しを考えると、出国することは当時としては最上の選択だったのだろうと推測します。確かにアルバムを紐解いて見てみると、いかにも頭が良さそうな顔立ちが並んでいます。想像に難くなかったけれど、やはり凄かった・・・。
 いつか機会があれば、当時交流した学生さんたちともお会いしてみたいものです。

 今回入校の労を執って下さったM氏夫妻の先輩は、私が持参した昔の資料や写真を指さしながら、誰それは今どうしているだの、既に亡くなっているだの、懐かしそうに話して下さいました。アルバム写真に登場している方たちの氏名も、おおかた判明しました。
 M氏夫妻は、現職の先生には誰も知り合いが居ない、と言っていました。どうやら洋上セミナーの交流活動を直接覚えている方も、校内にはいらっしゃらないようです。両名とも教職を退いて大分経つので、そんなものかも知れませんが、同期の教師は一人も残っていないようです。

 20代中盤だったM氏夫妻が現役だった頃、彼らの先輩に当たる教師の殆ど全員が、中間の年齢層を飛び越して50代以降ばかり、という構成だったそうです。
 歴史的に仕方なく生じたのであろう、いくつかのゼネレーション・ギャップが垣間見える再訪となりました。



・・・・・・以下続く
         (2017.03.07)






第九十六回 30年目の故地重游 6

 お金(旅費に充分足るお金、という意味)が無いこと、言葉が出来ないこと、特に中国旅行に関してコネが無いがための不便、事前の下調べや地理の把握に、宿と脚の確保の必要性・・・。二度目の天津行きで得た教訓は、少なくありませんでした。後年、自分が旅に出る際の基本的な考え方の礎となったのは、まず間違いありません。

 よく、バックパッカーやTVで芸能人などが何も決めないまま、行きずりの人の家や宿に突然お邪魔してコミュニケーション・・・というシチュエーションを見聞きしますが、有り得ない話です。その日の宿が見付からなくても、成り行きとハラハラドキドキな過程を楽しもうとでもいうのでしょうか。そういう旅は、私にとって全く楽しくありません。

 さて、そんなほろ苦い(?)思い出が多い天津ではありますが、2015年の旅では是非とも払拭したいもの。
 天津市は、東に渤海、北に燕山山脈、西に北京市とも境を接しているため、北京の玄関口として古来より重視されてきました。中国北方最大の沿海開放都市にして、渤海湾沿岸地区における経済の中心地。南北18㎞、東西117㎞、総面積11919.7平方㎞、人口約1300万の直轄市です。
  近代においては、日本や欧米による租界が存在し、列強の半植民地支配の拠点でありました。孫文が宿泊した張園、周恩来が学んだ南開大学などを有し、歴史を彩る人々が多く関わった街であることが分かります。
  近年、遺された租界時代の建造物はよく修復保存され、観光に一役買っています。上海や大連とはまた違った雰囲気です。

  私が行きたい所へどうぞ、と仰るA嬢の言葉に甘え、先ずは水上公園、天津賓館の今の姿を確かめました。
  水上公園では、集団迷子になっていた間に、はぐれなかった同じ班の仲間が登った塔(後日写真で知った)が現存しており、私も登って来ました。30年目のリベンジ(?)です。
  お世話になった天津賓館は、30年後は外資との合弁になったのか、クラシックなたたずまいは消え失せ、近代的な五つ星ホテルに変貌していました。ちょっと残念・・・。

  他にも、旧フランス租界にそびえ建つキリスト教会・西開教堂、旧日本租界に亡命したラスト・エンペラー溥儀夫妻が滞在した静園、五大道などなど、天津を代表する観光地を見学して、日帰り天津旅行を終えました。


 出発の直前まで、車を手配して一緒に行くと言っていたM氏夫妻(やっぱり子供扱い)は、一日では充分に廻り切れなかったという私の話を、したり顔で聞いていました。道路の渋滞や、タクシーを拾うに伴う困難は、何も北京や上海だけの問題ではないようです。

 聞けば彼らは、週末にはしょっちゅう二人で「天津デート」を楽しんでいる模様。
 夕方から高速鉄道で出て、近年公開された「イタリア街」(旧イタリア租界を再開発した地区)でショッピングや食事(勿論洋食!)を楽しみ、海河をクルージングしたり、夜景を眺めてサーッと帰る。大まかに、こんなコースだそうです。

 うーん、ロマンチックで素敵ですね。



・・・・・・以下続く
         (2016.11.14)






第九十五回 30年目の故地重游 5

 思えば、私の天津行きにはいつも、何らかの強烈な思い出が付きまといます。

 1985年、天津の港から上陸し、一番最初に訪れた水上公園で、私は何と、迷子になってしまいました。私だけでなく、私と同じ班員数名が集団迷子になった、というか置いてけぼりを喰らったのです。
本来は、団体行動で公園内を動かなくてはいけなかったのですが、指示に行き違いがあり、一旦解散して集合、と聞いた班員が時間になって戻ってみると、誰も居ない。さぁ、パニックです。

 兎も角、周りはみんな中国人(当たり前)。言葉も判らないし、どうやって、何処へ向かえばいいのかも分からない。初めての外国で初めて脚を踏み入れた処でこの事態。お互い、外国人を見慣れていない者同士だから、昼間の事とは云え、緊張のひと時。
  ・・・最終的には、中国側の担当者が探しに来て下さり、昼食会場で他のみんなと合流し、何とか事なきを得ました。あの事件は、今でも仲間の間では語り草の一つです。

 天津へ二度目に行ったのは、北京に短期留学していた1989年。クラスメートの有志で出掛けた週末旅行でした。言いだしっぺで年長の留学生に付いて行けばいいや、と何も考えずに参加しました。
 ところが、彼は宿の予約もしておらず、日本のガイドブックに小さく書かれた目当ての宿は、いくら探しても見付かりません。そうこうしている内に、日は暮れてゆきます。私だけでなく、他の子たちも彼に頼って天津まで付いて来たクチだったので、一気に険悪なムードというか、意気消沈。何軒か飛び込みで宿探しを試みましたが、案の定、門前払いです。
 本当に辺りが暗くなり、「お腹すいた」なんて言い出す者も出る始末。言いだしっぺ氏は全然役に立たず、いつしか小さくなっていました。


  誰からも何のアイデアも出ず、とうとう私が、一つだけしか知らなかった天津のホテル・天津賓館へ行ってみよう、と提案するに至りました。
  1985年に宿泊した記憶だけで何とか辿り着いた天津賓館で交渉してみると、部屋はある。じゃあ、そこに決まり!・・・となりかけたのに、一人から「お金が足りない」と言われてしまいました。
 天津賓館は、確かに安宿ではありません。提示された正確な宿代は忘れましたが、極端に高額でもなかったような・・・。しかし彼女は、留学費用を日割りで計算して切り詰めていたらしく、無理は言えませんでした。
 各自の予算も、言いだしっぺ氏からは安易に算出した額しか告げられていなかったと思います。当時は誰もキャッシュカードなんて持っていなかったし、恐らくみんなギリギリの現金しか所持していなかったと思います。

 そんな様子を察して、気の毒に感じたフロントの係員から「お金が無いなら、南開大学の招待所へ行ってみたら」とアドバイスされました。
 時間も遅いので、その前に腹ごしらえ、と天津賓館のダイニングでようやく夕食にありつきました。誰もが無言な中、何とも惨めさが漂います。追い打ちをかけるように、会計の際、お金を先にまとめて払おうとした私に、言いだしっぺ氏が「人民幣で支払ってもいいか、聞いてみてよ」と口出してきました。

 その頃は、ちゃんとしたホテルでの飲食ならば尚更のこと、外国人は外貨兌換券で支払うのがエチケットだとすら思っていた私は、本当に情けなくなりました。
 ホテルの手配も食事のオーダーも、自分では何もしないクセに・・・!とムッとしました。
 でも、よくよく考えてみると、自分も少し前までは同じだったじゃないか、自分も人任せにしていたからいけなかったんだ、と思い直すしかありませんでした。



・・・・・・以下続く
         (2016.11.14)






第九十四回 30年目の故地重游 4

 北京-天津を往復するのに、高速列車を利用することにしました。距離にして120㎞、所要時間約40分。30年前は2時間近くかかったと思います。
 乗車券は日本からネットでの予約も可能なようですが、今回は一緒に天津へ行って下さる、北京在住のA嬢に予約購入をお願いしました。

 1985年に北京天津間を往復した時は、北京市側が全てを手配してくれたので、私たちは何の苦労もありませんでした。外国人である我々と、中国人が乗車する客車が鍵で閉じられ、ハッキリ分けられていたのも、あの時代らしさを物語ります。

 1990年代前後の私は、一介の留学生として人民に紛れ、時には争奪戦の如く列車の切符を手に入れたものです。
  何だって、こんなに沢山の人が移動するのだろう(自分もその中の一人だったのに)。何だって、みんな並ばないのだろう(効率悪~)・・・。嗚呼、イヤだ嫌だ!もともと諦めがよく、人々との争い(!?)も好まない私のトラウマは、そう簡単に薄らぐことはありません。
 あの頃は、乗り物に「外国人料金」なるものが適用されていました。更には中国元も基本的に外国人が使うのは人民幣ではなく外貨兌換券と決められていて・・・と、色々な面倒もありました。

 現在は、そのような料金上の区別も、外国人への優遇もありません。切符はインターネットによる予約購入も出来ますし、窓口で買う場合も、おおかた誰もが大人しく列に並んでいるようです。
 中国の高速列車に関しては先年、上海から蘇州へ行く折に自分で切符を購入、乗車したので、既に体験済です。外国人は窓口でしか乗車券の購入が出来ませんが、中国人は便利な自動券売機の利用も可能で、鉄路のスピード化にも沿っていると言えます。




  渡航が近づいたある日、A嬢から連絡が入りました。乗車券の予約には身分証明書・パスポートの番号等が必要、とのこと。
  直接購入する場合でも、外国人はパスポートの提示が求められます。念のため、パスポートの番号が記載してあるページのコピーを取り、メールと郵送でそれぞれA嬢に送付して代理購入をお願いしました。

 中国人外国人問わず、いずれにせよ切符の購入には本人確認が必要なので、中国国内の人々の移動は、当局の管制下に置かれているということか。

 さて、天津行きの朝、出発駅である北京南駅改札でA嬢と待ち合わせ!実に20年以上ぶりの再会です。
 感動に浸りながら、予約した乗車券を受け取りに窓口へ赴くと、A嬢が何か言われている。どうやら、予約時の記名に問題があったらしいのです。ネット予約の際、A嬢は日本語氏名=漢字表記で入力したところ、正しくはローマ字で書かなくてはならなかったのでした。

 窓口での説明によると、発券の際に提示するパスポートのローマ字氏名の記載と、予約時に入力した氏名が一致しないと発券が出来ない、という理由だそうです。考えようによっては、さもありなん。
 確かに、他の言語を母語とする人ならば、世界共通のローマ字表記を心がけそうなものですが、日本人は時として中国語と日本語における漢字を混用してしまうので、このようなミスとなったのかも知れません。でも、ネットの画面上ででも注記してくれていれば、こんな双方にとって面倒な事も避けられただろうに、とちょっと思ったりして。

 そうこうしている内に、自分たちが乗りたい列車の出発時間が迫っています。経験上このような場合、埒が明かないのは明白。ただちに予約はキャンセルし、別の階にある通常の購入窓口へ走って買いなおし、何とか間に合いました。
  結局、当日朝に直接購入するのと同じことになりましたが、もし中国語が解らなければ、やはり不便ではあります。全く、中国での列車利用は今でもオッカナビックリの私です。
 想定内の(!?)小さなハプニングがありながら、列車は軽やかに加速し、A嬢が用意して下さったお菓子やコーヒーを楽しむ間もなく、天津へ到着しました。



・・・・・・以下続く
         (2016.8.22)






第九十三回 30年目の故地重游 3

 こうして北京での一日が終わりました。

 仕事でお忙しいM氏夫妻に迷惑が掛からぬよう、当初は一人で歩こうと思っていました。

 北京も地下鉄網がとても発達して、かなりの距離を結んでいます。
1969年10月に中国初として開通した北京の地下鉄は、2015年現在で全18路線を運行。2016年末にはもう一路線開通が予定されているそうです。今世紀に入ってから一気に17路線が開通ということは、一年に一路線開通というスピード。凄い。これも都市化と経済の急成長による賜物か・・・。
北京市では、2020年までに30路線まで拡大する計画があるそうです。ということは、数年以内にあと10路線??地盤沈下とか、大丈夫なのかしら、と素人考えながら心配してしまいます。

  昔は一律料金だった地下鉄の運賃は、距離別運賃制へと変わり、窓口で手売りだった乗車券は、タッチパネル方式の自動販売機で購入出来ます。ICカードも自動改札もあるしで、乗り換えも便利なのです。

  自分としては、これらの公共交通手段を利用して・・・、と考えていたものの、アッサリ却下されました。M氏がタクシーをチャーターして下さり、結果的にとても効率よく移動することが出来ました。全体的には、万歩計を付けていたら相当な歩数を刻んでいたのではと思われるほど歩きもしましたが、M氏の配慮には、感謝する他はありません。

 殆ど保護者のようにして、昼間の観光はM氏が付き添い、晩に帰ると、仕事を早く切り上げて帰宅した奥様が手料理で迎えて下さる・・・、という具合で、まるで子供扱いというか、至れり尽くせり。

 以前から、自宅で手料理をふるまいたい(=だから、ゆっくり時間を取って北京へいらっしゃい)、と仰っていたとおり、奥様は料理も大変上手。
どこかでお話したかも知れませんが、私が未だに自分史上ナンバー1に挙げる中国料理は、このM夫人によるエビ料理です。それを憶えていて下さっていたのか、今回も立派なエビが食卓に上っていました。

夫婦揃って日本びいきなこともあり、M夫人は日本料理も時折作るそうです。その時は昆布や鰹節でちゃんとダシを取るとの事で、ビックリ。本棚にも、日本料理の指南書をズラリと並べています。パンやお菓子も、日本で出版された料理書(翻訳版)を参考にして作る徹底ぶり。全く以て、恐れ入ります・・・。
 自分が彼らをお迎えする立場となったら、同じようには到底出来ません。実際、その旨を直接訴えたことがあるほど、毎回恐縮するもてなしぶりで戸惑うくらいです。少なくとも嫌われてはいない証拠なのだろうけれど、果たして一体、私が彼らに何かしてあげたっけ?と首をひねるばかりなのです。


・・・・・・以下続く
         (2016.7.22)






第九十二回 30年目の故地重游 2

 水が乏しかった北京では、水辺に住まうことが贅沢に数えられるのか、昔から宮殿や貴人の邸宅も多く(現在でも、政府機関中枢にして要人の居住区・中南海は水辺!)、北京の代表的な景観には、水がつきものです。
 北海公園に広がる北海では真昼の太陽が、頤和園では夕日が昆明湖の水面を照らして輝いていました。

 M氏夫妻は、外で酸?(スワンナイ・ヨーグルト)を見ると、必ず私に勧めます。しかも昔風の、厚ぼったい瓶に入っていてストローで吸うタイプに限ります。勿論、私の好物であることを知っているからですが、気配りが細やかというか、何というか・・・。今回も、晴天下を歩き廻った私たちは、北海公園の木陰でヨーグルトを、頤和園の休憩所では、これまた懐かしい北氷洋汽水(ベイビンヤンチーシュイ)で涼を取りました。

  北氷洋汽水は、1936年販売開始の、中国における清涼飲料水の草分け。嘗て毛沢東の時代には、政府主催の宴会指定飲料だった輝かしい歴史をも有しています。現在は外資の技術提携なども経て、新しい味も出しているようですが、昔ながらの味は、やはりオレンジ味!ひょっとして、私が紙製のストローと格闘していた飲み物は(『玉手箱』第33、34回参照)、これだったかも・・・。

 北京大学は、私が寮生活を送った宿舎が取り壊されると噂で聞いたので、立ち寄ってみました。
 自分が北京大学内に居住したいた頃は、外国人の出入りにかなり厳しかったけれど、今はどうかな?
車輌用の門から入ろうとすると、事前申請制で許可証が無いとダメ、とのこと。どうやら外部者も含めてそんなカンジだったので、従来のクセで、諦めが早い私が帰ろう、と言うとM氏は車で別の門へ回り、歩いて入ってみようと私の促したのでした。
知らんふりして入ってみよう、と。門番に呼び止められることなく構内に入れてしまえば、こっちのものです。遠回りにはなったけれど、久々に歩いて北京大学の広大な敷地を横切り、目標の留学生用宿舎に到着しました。
 ところが取り壊し、はどうやらデマだったようで、寮は昔のまま現役続行中。少しホッとしました。中に入らず外から眺めただけですが、5年前には見られなかった空調が各部屋に取り付けられているのが、外観から判りました。この様子だと、まだ大丈夫かな?
 昔あったモノが無くなってしまうのは、何とも寂しく感じてしまいます。 

 この日の最終立ち寄り地点は、友諠賓館。30年前の私たちが宿泊したホテルです。
 30年前に撮影した写真とほぼ同じ角度で写真が撮れるよう、わざわざ中まで車で入って貰いました。
 後で知ったところによると、こちらは元々はソ連(当時)の技術援助で建てられた外国人専用の長期滞在型ホテル。旅行客だけでなく、エンジニア、出版編集者、翻訳者、放送関係者などの外国人エキスパートに提供する宿舎としての役割もありました。1985年当時の詳しい位置づけは不明ですが、一度に400余名を泊めるには、面積も設備も充分に有するこのホテルが最適だったのでしょう。
 尤も、その頃の私たちはそんな世界があるとは知らず、無邪気にも林間学校のノリで、部屋のベッドに吊るされた天蓋すら珍しく、夜遅くまで騒いでいたものです。

・・・・・・以下続く
         (2016.6.13)






第九十一回 30年目の故地重游 1

 短い短い、北京&天津再訪の旅。
 私が30年前(間)を追憶する旅にしたい、と話したら「故地重游(グーディジョンヨウ)だネ」と言われました。お説の通り、昔訪ねた場所で再び游ぶ、です。

 北京に到着した翌朝から、早速出発。一日で天壇公園、天安門、故宮、北海公園、頤和園、北京大学、と廻りました。  いつまで経っても「初心者観光コース」から卒業出来ない私。それもこれも、北京を再訪するスパンが長いからだと判ってはいますが「一度行った国や都市の再訪は、取り敢えず後回し」という自分の原則なので、なかなか難しい問題です。

 週末の天壇公園は、朝から沢山の人で賑わっていました。旅行者だけでなく園丘壇で自撮り棒を操る外国人留学生や、結婚記念写真を撮るために着飾ったカップル、ダンスサークルのオバサンたち・・・。皆、さまざまな過ごし方で楽しそうです。
 確か、30年前は「皇帝の庭だったのが、市民に開放されて公園となった」と説明されたように記憶しています。厳密に云うと違うけれど(天壇は本来、皇帝が天を祭る儀式の場)、当時は検証する暇も無く、何でもかんでも目にするものが珍しいばっかりで、めまぐるしかったです。

 天安門広場と天安門の間を東西に走る大通り・長安街は、30年前は横断歩道を渡りました。私が海外で大通りを横切った最初の経験(?)が、この長安街だった訳です。
 現在は地下通路が整備されていますが、今もしこの通りを歩いて横切ろうものなら、自殺行為になりかねません。

 天安門広場へ行くのにも、現在は一々荷物チェックが必要となり、世知辛い世の中となりました・・・。

 天安門の真ん中を通る橋は、現在は武装警官が立ちはだかり、通行禁止となっています。30年前に通っておいて良かったかも。当時は、手すりに腰かけている人民なんかも見られて、何ともノンビリした時代でした・・・。  故宮では、20年以上ぶりに「九龍壁」を見学。昔とちっとも変っていない、と思っても、昔の写真と比べてみると、壁の前に手すりが設けられていたり、洗浄されたのか、全体的にキレイになっています。
 恐らくはオリンピックを境目にして、観光施設ともなっている文化財の整備が飛躍的に進んだのでしょう。こうした保護の姿勢は、何でもすぐに壊してしまう日本に比して、大変歓迎すべきことだと思います。

・・・・・・以下続く
         (2016.5.16)






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